藤原顕長

平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流葉室家。従二位・権中納言。

藤原 顕長(ふじわら の あきなが)は、平安時代後期の公卿藤原北家勧修寺流葉室家権中納言藤原顕隆の三男。官位従二位・権中納言。八条中納言と号す。

 
藤原 顕長
時代 平安時代後期
生誕 元永元年(1118年
死没 仁安2年10月18日1167年12月1日
改名 頼教(初名)→顕教→顕長
別名 八条中納言
官位 従二位権中納言
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇
氏族 藤原北家勧修寺流葉室家
父母 父:藤原顕隆、母:源顕房の娘
兄弟 顕頼顕能藤原家政室、立子、栄子、顕長、顕源、隆恵、隆勝、徳大寺実能室、藤原清隆室、藤原憲方室、女子、徳大寺実定
藤原俊子(藤原俊忠の娘)
藤原顕頼の娘
長方憲頼為明泰隆泰房、長真、徳大寺実定室、藤原雅長室、建春門院女房堀川
テンプレートを表示

経歴

編集

天永3年(1122年)、5歳にして従五位下に叙爵。以後、紀伊国越中国三河国遠江国といった国司を歴任する。保元3年(1158年)に参議長寛2年(1164年)に権中納言。

平治元年(1159年)の平治の乱の直後、三条殿の焼失に伴い、後白河上皇が一時顕長邸に仮の御所を営んでいた。この際に上皇が好んで市井の様子を眺めていた顕長邸の桟敷を、上皇に対抗意識を持つ二条天皇親政派の藤原経宗藤原惟方(顕長の甥)が強引に封鎖したことが上皇の激怒を買い、両名の失脚・配流に繋がったことは、つとに知られている。

仁安元年(1166年)に権中納言の職を辞し、翌年卒去。

系譜

編集

出典

編集

関連項目

編集