藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家歌人藤原北家末茂流、修理大夫藤原顕季の長男。官位正三位権中納言正一位左大臣八条を号した。

 
藤原 長実
時代 平安時代後期
生誕 承保2年(1075年
死没 長承2年8月19日1133年9月19日
別名 八条、二条の帥
官位 正三位権中納言
正一位左大臣
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原顕季 母:藤原経平の娘
兄弟 長実家保顕輔、覚顕、顕宗、藤原宗通室、源顕雅室、藤原経実室、藤原敦兼室、三条実行室、源雅定正室
源方子源俊房の娘)、文賛の娘
長親顕経顕盛長輔得子時通長盛藤原宗能室、長子
特記
事項
近衛天皇の外祖父
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経歴

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白河朝末の応徳2年(1085年従五位下叙爵し、応徳3年(1086年美濃権守に任官。同年白河天皇譲位して院政を開始すると、長実は父の顕季とともに院近臣として仕え、翌応徳4年(1087年左兵衛佐寛治2年(1088年)従五位上、寛治4年(1090年正五位下、寛治7年(1093年従四位下、寛治8年(1094年)従四位上、嘉保2年(1095年正四位下と、順調に昇進する。また、30年以上の長きに亘って、因幡国尾張国伊予国播磨国といった諸国の受領も歴任した。この間の天仁元年(1108年)から約6年ほど長実の邸宅(大炊御門万里小路第)が白河院御所として使われている[1]

保安3年(1122年従三位に叙せられて公卿に列すとともに、顕季から修理大夫の官職を譲られる。保安4年(1123年)顕季が没して以降の白河法皇の晩年では長実は最も身近な側近であった。

大治4年(1129年)4月に斎院統子内親王の前駆を務めた労により参議に任ぜられ、議政官となる。本来この前駆を務めるべきであった、参議の源師頼藤原宗輔が俄にに服すことになり、蔵人頭藤原忠宗源雅兼も服忌中であったことから、偶然長実が務めたものであったという[2]。同年7月に白河法皇が崩御すると、その葬儀に深く関与し、さらにその後1年間に亘って仏事を修した[1]。次代の鳥羽上皇にも信任されて、同院別当に補されたほか、同年11月に正三位に昇叙され、翌大治5年(1130年)に権中納言に至る。

長承2年(1133年)正月に兼大宰権帥を兼ねるが、同年8月19日に薨去。享年59。死後、娘の藤原得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を得て躰仁親王を産み、永治元年(1141年)躰仁親王が即位近衛天皇)したことから、長実は天皇の外祖父として正一位左大臣を追贈されている。

人物

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  • 政治手腕についての周囲の評価は低く、権中納言就任にあたっては藤原伊通が抗議の意味で致仕するという事件が発生、また長承2年(1133年)に長実が没した際には、中御門宗忠から「無才の人、納言に昇るはいまだかつてあらず」と酷評されている(『中右記』)。
  • 長実の娘である得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を受けるのは長実が病没した翌年の長承3年(1134年)の春以降とされており、生前の長実は鳥羽上皇による院近臣の入れ替え(亡くなった白河法皇側近の排除)の影響を受けて不遇であった。しかも、得子が上皇の寵愛を受けたことにより、正妃であった藤原璋子(待賢門院)の怒りを買って長実の子供たちは処分を受けた。その後、得子は父の邸宅である八条殿を自分のものにすると共に、天皇の母になった後も長兄・顕盛の遺児である俊盛などを登用しているが白河法皇の側近であった自分の兄弟(長実の息子)を登用する事はなかった[3]
  • 父・顕季や弟・顕輔らと同様に和歌に対する造詣は深く、自邸八条亭でたびたび歌会を開催すると共に、鳥羽殿北面歌合・右近衛中将雅定歌合に出詠するなど、数多くの自作を遺した。『金葉和歌集』(15首)以降の勅撰和歌集に19首が入集している[4]

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ a b 『公卿補任』
  3. ^ 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号(2012年)/所収:佐伯『中世前期の政治構造と王家』(東京大学出版会、2015年) ISBN 978-4-13-026238-5
  4. ^ 『勅撰作者部類』
  5. ^ 『中右記』

参考文献

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  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

外部リンク

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