藤原 親盛(ふじわら の ちかもり)は、平安時代末期の武士歌人藤原北家長良流。官位従五位下左衛門尉大和守後藤親盛とも称した。

 
藤原親盛
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 不詳
改名 親盛→見仏
別名 後藤親盛
官位 従五位下左衛門尉大和守
主君 後白河上皇
氏族 藤原北家長良流
父母 父:藤原親康
兄弟 親盛信親
親時
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略歴

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大和守・藤原親康の子として誕生。

北面武士として後白河上皇に仕える一方、歌人としても頭角を現す。仁安2年(1167年閏7月12日右兵衛権少尉に任じられ、翌年1月11日には平康頼と同時に左兵衛少尉に任ぜられる[1]承安2年(1172年)閏12月の東山歌合等に出詠している他、自らも二度にわたり歌合を主催している。俊恵道因小侍従西行といった同時代の歌人との交流があり、『千載集』以下の勅撰和歌集に入集。私撰集『百題抄』、家集に『親盛集』を遺している。また今様でも上皇の弟子であった。

建久3年(1192年)3月、上皇の崩御に際して出家。法名を見仏と称す[2]。没年を含めその後の事績は不詳。

脚注

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  1. ^ 中村文『後白河院時代歌人伝の研究』笠間書院、2005年、407-408頁
  2. ^ ただし元暦2年(1185年)に当時焼失していた青龍寺の再建を僧見仏が法皇に奏上したとの所伝もあり、それに従えば親盛の出家はこれよりかなり前であったことになる。