藤原朝経

平安時代中期の公卿。藤原北家兼通流。正二位・権中納言

藤原 朝経(ふじわら の あさつね)は、平安時代中期の公卿藤原北家兼通流、大納言藤原朝光の長男。官位正二位権中納言

 
藤原朝経
時代 平安時代中期
生誕 天延元年(973年
死没 長元2年7月4日1029年8月16日
官位 正二位権中納言
主君 花山天皇一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家九条流兼通流)
父母 父:藤原朝光、母:重明親王の娘
兄弟 姚子、朝経登朝、相経、相任、相中、円融天皇女御
正室:藤原奉職の娘
誠任、基房、基宗、円朝
テンプレートを表示

経歴

編集

一条朝初頭の寛和2年(986年)に14歳で従五位下叙爵すると、永延2年(988年右馬助に任ぜられ、官途を始める。当時は一条天皇の即位と共に兼家が摂政となった時期で、父の朝光も永延3年(989年)大納言へ昇進するなど、兼家派の人材としてそれなりの処遇を得ており、朝経の前途もそれほど暗いものではなかった。

その後、執政の座は兼家から朝光と親密な藤原道隆に遷る中で、正暦2年(991年左衛門佐、正暦4年(993年)従五位上、正暦5年(994年右近権少将と、朝経は武官の閲歴を順調に重ねていた。ところが、長徳元年(995年)折からの流行病により父・朝光が没してしまう。この影響からか、3年ほど官位を据え置かれたのち、長徳3年(997年)一転して右少弁に任じられている。当時は、長徳元年(995年)に発生した疫病の大流行で公卿を含む多くの官人が亡くなったあとで、その補充に新たに太政官の首班となった藤原道長派の人物は次々と抜擢される一方で、昇進に与ることもなくさらに文官へ転じるような状況に、朝経の置かれた環境がやや厳しくなっている状況が推察される[要出典]

その後、長保元年(999年)左少弁、長保2年(1000年正五位下、長保3年(1001年)右中弁、長保5年(1003年従四位下次いで従四位上、寛弘2年(1005年)権左中弁、寛弘6年(1009年)左中弁、と一条朝の後半は弁官を務めながら昇進を続けた。

寛弘8年(1011年三条天皇が即位すると、天皇と道長との確執から人事が対立する中、天皇と縁の深い小一条流小野宮流ではなく、道長派というほど近くもない立ち位置から、妥協人事として朝経を用いる場面が増える[要出典]。寛弘9年(1012年正四位下蔵人頭兼右大弁に叙任されると、長和3年(1014年大蔵卿を兼ね、翌長和4年(1015年参議に任ぜられ公卿に列した。

長和5年(1016年)三条天皇は譲位したため、以後の昇進は急速ではなくなるが、弁官として養った実務官人としての経験を重宝される。右大弁大蔵卿を兼ねたまま、寛仁2年(1018年)には勘解由長官を兼ね、さらに造宮の功で従三位に昇任、寛仁4年(1020年)には大蔵卿と勘解由長官は辞職したものの、左大弁に転じるなど、公卿による陣定といった政権運営の事務方の中心となっていたことがうかがえる。また、一連の昇任の過程で朝経は道長に接近する機会を得たようで、万寿4年(1027年)の道長の葬送では、参集した公卿の一人として参加している[1]治安3年(1023年正三位・権中納言への叙任なども、当時中納言以上はほとんどが道長の縁者もしくは道長政権の協力者であったことから、道長派の公卿としての処遇と考えられる[要出典]

長元2年(1029年)1月24日に権中納言を辞任したのち、7月4日に薨去享年57。最終官位は前権中納言正三位。

官歴

編集

公卿補任』による。

系譜

編集

脚注

編集
  1. ^ 小右記
  2. ^ a b 『近衛府補任』
  3. ^ a b c 『弁官補任』
  4. ^ 『小記目録』寛仁4年4月10日条、『左経記』寛仁4年5月25日条

参考文献

編集
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
  • 市川久編『近衛府補任 第一』続群書類従完成会、1992年
  • 飯倉晴武校訂『弁官補任 第一』続群書類従完成会、1983年