藤原有信
平安時代中期から後期の貴族、漢詩人、歌人、儒学者。藤原実綱の三男。従四位下・右中弁。子に藤原資経、藤原資光(-1132)、宗慶、増覚(興福寺、律師)、覚秀(延暦寺、阿闍梨)、増
藤原 有信(ふじわら の ありのぶ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族、漢詩人、歌人、儒学者。藤原北家真夏流、式部大輔・藤原実綱の三男。官位は従四位下・右中弁。日野有信とも。
時代 | 平安時代中期-後期 |
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生誕 | 長久元年(1040年) |
死没 | 康和元年7月11日[1](1099年8月6日) |
別名 | 日野有信 |
官位 | 従四位下、右中弁 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家真夏流 |
父母 | 父:藤原実綱、母:源道成の娘 |
兄弟 | 有綱、有俊、有信、有定、有長、実国、藤原宗俊室 |
妻 | 藤原実政の娘 |
子 | 実光、宗光、資経、有範、範綱、資光、宗慶、増覚、覚秀、増実、藤原宗兼室 |
経歴
編集文章生・文章得業生を経て対策に及第し、康平8年(1065年)後冷泉天皇の六位蔵人に補せられる。治暦4年(1068年)後冷泉天皇の崩御に伴って蔵人を去るが、同年従五位下に叙爵した。白河朝では、実仁親王の東宮学士を務める。
堀河朝に入ると、兵部権大輔・左衛門権佐を務めたのち、寛治6年(1092年)右少弁に任ぜられる。その後は寛治8年(1094年)左少弁、承徳2年(1098年)右中弁と弁官を歴任し、承徳3年(1099年)正月に従四位下至る。この間、中宮大進として、中宮・篤子内親王に仕えたほか、藤原師通や藤原全子など摂関家の家司も務めている。
官歴
編集※注記のないものは『弁官補任』による。
- 天喜3年(1055年)日付不詳:文章生[3]
- 康平4年(1061年)日付不詳:文章得業生[3]
- 時期不詳:正六位上
- 康平6年(1063年)正月:見文章得業生丹後大掾[3]。10月26日:見文章得業生丹波大掾[4]
- 時期不詳:対策
- 康平8年(1065年)正月23日:六位蔵人[5]
- 治暦4年(1068年)4月19日:去蔵人(帝崩御)[6]。日付不詳:従五位下[2]
- 時期不詳:従五位上
- 承保2年(1075年)5月14日:見散位[7]
- 承保3年(1076年)7月18日:見東宮学士(皇太子・実仁親王)[5]
- 時期不詳:正五位下
- 寛治元年(1087年)12月13日:兼兵部権大輔[2]
- 寛治4年(1090年)6月5日:左衛門権佐[8]。9月21日:見藤原師通家司[9]
- 寛治6年(1092年)11月8日:右少弁、権佐如元
- 寛治7年(1093年)4月:中宮大進(中宮・篤子内親王)
- 寛治8年(1094年)6月13日:左少弁
- 嘉保2年(1095年)正月28日:兼美作権介。2月19日:円宗寺最勝会上卿[10]
- 嘉保3年(1096年)4月23日:藤原全子家司[9]
- 永長2年(1097年)正月29日:兼和泉守、去権佐大進
- 承徳2年(1098年)12月17日:右中弁
- 承徳3年(1099年)正月4日:従四位下。7月11日:卒去
系譜
編集『尊卑分脈』による。