藤原是人
奈良時代の貴族。正五位下・右少弁
藤原 是人(ふじわら の これひと)は、奈良時代の貴族。名は許人麿とも記される[1]。藤原南家、参議・藤原乙麻呂の子。官位は正五位下・右少弁[1]。
時代 | 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 許人麿 |
官位 | 正五位下、右少弁 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇 |
氏族 | 藤原南家武智麻呂流 |
父母 | 父:藤原乙麻呂、母:真都我(橘佐為の娘) |
兄弟 | 是公、是人、藤原今河室 |
妻 | 不詳 |
子 | 菊池麻呂 |
経歴
編集宝亀元年(770年)称徳天皇の崩御後、白壁王(のち光仁天皇)が皇太子に冊立されてまもなく従五位下に叙爵され、翌宝亀2年(771年)大学助に任ぜられる。のち、光仁朝では図書頭・肥後守を歴任し、この間の宝亀9年(778年)には、秋の豊穣を祈願するために、参議・藤原是公と共に廣瀬大社・龍田大社に派遣され奉幣を行っている[2]。
桓武朝では、大判事・中務少輔を歴任し、延暦4年(785年)8月に従五位上に昇叙されるが、同年9月に藤原種継暗殺事件が発生すると、10月に長門守に任ぜられ地方官に転じる。延暦9年(790年)治部大輔として京官に復帰すると、延暦10年(791年)右少弁に転じている。
官歴
編集『続日本紀』による。