藤原季兼
平安時代後期の貴族
藤原 季兼(ふじわら の すえかね、生年不詳 - 長寛2年5月3日(1164年5月25日))は、平安時代後期の貴族。藤原北家道綱流、刑部卿・藤原敦兼の子。官位は正四位下・備後守。
経歴
編集祖父・藤原敦家、父・敦兼、母方の祖父・顕季と名だたる管絃堪能者を輩出した家系に生まれ、自身も管絃に優れた[1]。従五位下に叙爵後、白河院政期末の大治元年(1126年)能登守に任官し、翌大治2年(1127年)従五位上に叙せられる。長承元年(1132年)右衛門佐に任ぜられ、この頃に崇徳天皇が管弦の催しを行った際、季兼は急に昇殿を許されて篳篥を演奏した[2]。
その後も右衛門佐を務める一方で、長承2年(1133年)阿波守、康治元年(1142年)ごろ上総介、久安5年(1149年)備後守と、白河院政期末から鳥羽院政期にかけて20年以上に亘って地方官を務め、位階は久安5年(1149年)正四位下に至った。この間、鳥羽院の八幡御幸において神楽庭火の本歌をとなえたり[3]、保元3年(1158年)に行われた復活内宴で篳篥を演奏したほか[4]、源資賢らとともに雅仁親王(のち後白河天皇)の今様先達を務めるなど[5]、音楽面での活動が見られる。
官歴
編集- 時期不詳:従五位下
- 大治元年(1126年) 2月24日:能登守[6]
- 大治2年(1127年) 正月12日:従五位上[7]
- 長承元年(1132年) 正月22日:右衛門佐[8]、能登守如元
- 長承2年(1133年) 5月6日:阿波守[7]
- 時期不詳:正五位下
- 保延5年(1139年) 4月30日:見右衛門佐[9]
- 康治元年(1142年) 10月26日:見上総介[10]
- 久安5年(1149年) 3月18日:備後守[10]。3月20日:正四位下[10]
- 久寿2年(1155年) 10月26日:見前備前守正四位下[11]
- 保元3年(1158年) 正月22日:見前備後守[12]
- 長寛2年(1164年) 5月3日:卒去(前備後守正四位下)[13]
系譜
編集『尊卑分脈』による。