藤原基長
藤原 基長(ふじわら の もとなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家御堂流、内大臣・藤原能長の長男。官位は正二位・権中納言。
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 長久4年(1043年) |
死没 | 嘉承2年11月21日(1108年1月5日) |
別名 | 尹中納言[1] |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原能長、母:源済政の娘 |
兄弟 | 道子、基長、長明、長忠、宗信、長覚、仁豪、覚仁、長寛 |
妻 | 藤原基貞の娘 |
子 | 道覚、実兼 |
経歴
編集後冷泉朝の天喜3年(1055年)叙爵し、翌天喜4年(1056年)侍従に任官する。天喜5年(1057年)右近衛少将に遷ると、康平6年(1063年)従四位下、治暦3年(1067年)右近衛権中将、治暦4年(1068年)正月に従四位上と近衛次将を務めながら昇進を重ねる。
同年7月に後三条天皇の即位に伴って正四位下に昇叙されると、同年12月に蔵人頭に補される。のち、治暦5年(1069年)従三位次いで正三位、延久2年(1070年)従二位と、後三条天皇の側近として権勢を奮った父・藤原能長の譲りを受けて急速に昇進を果たした。
白河朝初頭においても、延久4年(1072年)参議、延久5年(1073年)正二位と昇進を続け、議政官として引き続き近衛中将を兼帯した。しかし、承暦4年(1080年)位階が下位(従二位)であった藤原宗俊・源師忠・藤原伊房に権中納言昇進で先を越されると、基長は出仕を止めてしまい、承暦5年(1081年)10月に不出仕を原因として職封を止められる。翌永保2年(1082年)正月に権中納言に昇進するが、同年11月に後ろ盾であった父の内大臣・藤原能長を喪った。
その後、基長は兼官を帯びないまま約9年に亘って権中納言のみを務める。寛治5年(1091年)権中納言を辞任と同時に弾正尹に任ぜられ、以降はこれのみを帯びた。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 天喜3年(1055年) 4月26日:従五位下(皇后宮臨時給)
- 天喜4年(1056年) 2月:侍従
- 天喜5年(1057年) 2月30日:右近衛少将、去侍従[2]
- 天喜6年(1058年) 正月6日:従五位上(少将労)
- 康平2年(1059年) 2月15日:備後介[2]
- 康平4年(1061年) 正月5日:正五位下
- 康平6年(1063年) 正月5日:従四位下(少将労)
- 治暦3年(1067年) 2月6日:右近衛権中将
- 治暦4年(1068年) 正月6日:従四位上。7月21日:正四位下(御即位、能長卿譲、前坊大夫賞云々)。12月29日:蔵人頭(頭中将)
- 治暦5年(1069年) 正月27日:近江介。6月19日:従三位(能長卿譲)。8月16日:正三位(同譲、閑院行幸賞)
- 延久2年(1070年) 2月17日:左近衛権中将。8月23日:従二位(能長卿譲、春日行幸賞)
- 延久4年(1072年) 2月1日:兼周防権守。12月2日:参議、中将権守如元
- 延久5年(1073年) 4月30日:正二位(行幸一院賞、能長卿譲)
- 承保4年(1077年) 正月29日:兼伊予権守
- 承暦4年(1080年) 8月22日:兼右近衛中将
- 承暦5年(1081年) 10月26日:依不出仕被停職封
- 永保2年(1082年) 正月21日:権中納言
- 寛治5年(1091年) 正月:弾正尹、止権中納言
- 承徳2年(1099年) 12月26日:出家
- 嘉承2年(1107年) 11月21日:薨去[3]
系譜
編集『尊卑分脈』による。