藤原公経

日本の平安時代の貴族

藤原 公経((ふじわら の きんつね)は、平安時代中期から後期にかけての貴族藤原南家巨勢麻呂流、宮内少輔藤原成尹の長男。叔父の権中納言藤原重尹の養子。官位従四位上主殿頭

 
藤原公経
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 不詳
死没 承徳3年7月23日1099年8月18日
別名 公泰(号)
官位 従四位上主殿頭
主君 後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇堀河天皇
氏族 藤原南家巨勢麻呂流
父母 父:藤原成尹、母:源光忠の娘
養父:藤原重尹
兄弟 養兄弟:素意
大江朝通の娘
章綱
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経歴

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若い頃は河内国の古寺の沙門で、公泰と号したという[1]

のち還俗して叔父の権中納言重尹の養子となり、文章生に補せられる。後朱雀朝長久3年(1042年勘解由判官任官すると、式部少丞を経て、後冷泉朝天喜2年(1054年巡爵により従五位下加賀権守に叙任されるが、同年中に中務権大輔として京官に遷った。康平2年(1059年)中務権大輔の功労により従五位上に陞叙。

後三条朝初頭の延久元年(1069年少納言に任ぜられると、白河朝でも引き続き少納言を務めながら、延久5年(1073年)に正五位下承保2年(1075年)には従四位下と順調に昇進した。応徳2年(1085年主殿頭に任ぜられると、これを終生務め上げる一方、白河院政期に入ると寛治3年(1089年越中介嘉保3年(1096年河内守と地方官も兼ねている。永長2年(1097年)従四位上に至った。

承徳3年(1099年)7月23日卒去。最終官位は従四位上行主殿頭兼河内守。

人物

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生まれつき世事に染まらず、吟詠をよくした。また、和歌にも通じた。古寺にいた際は戒行を欠くことはなく、修錬を怠ることは決してできなかったという[1]和歌は1首ながら、『後拾遺和歌集』に残っている。また、寛治元年(1087年)に行われた御讀書始では点図を書くなど、文の清書なども務めている[2]

官歴

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本朝世紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 『本朝世紀』承徳3年7月29日条
  2. ^ 中右記』など