藤原巨勢麻呂
日本の奈良時代の貴族。藤原武智麻呂の四男。従三位・参議。巨勢麻呂流(高倉流)の祖。
藤原 巨勢麻呂(ふじわら の こせまろ)は、奈良時代の貴族。名は許勢麻呂とも表記される。藤原南家、左大臣・藤原武智麻呂の五男。官位は従三位・参議。
時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天平宝字8年9月18日(764年10月17日) |
別名 | 許勢麻呂 |
官位 | 従三位、参議 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇 |
氏族 | 藤原南家武智麻呂流 |
父母 | 父:藤原武智麻呂、母:阿祢娘(小治田功麿の娘) |
兄弟 | 豊成、仲麻呂、乙麻呂、 巨勢麻呂、南殿 |
妻 |
山背王の娘、丹墀氏 藤原宇合の娘、藤原永手の娘 |
子 | 黒麻呂、長川、真作、今河、河主、弓主、貞嗣、川合、真書、伊勢人、瀧麿、主後、広河 |
経歴
編集天平12年(740年)従五位下に叙爵。天平15年(743年)中宮亮に任ぜられ光明皇后に仕えると、以降天平17年(745年)従五位上、天平20年(748年)正五位下、天平勝宝2年(750年)正五位上、天平勝宝6年(754年)従四位下と、聖武朝後半から孝謙朝にかけて順調に昇進する。
天平宝字2年(758年)淳仁天皇が即位して、藤原仲麻呂(恵美押勝)の独裁体制が確立すると、仲麻呂政権の中核メンバーとして、同年従四位上、天平宝字3年(759年)正四位下・播磨守、天平宝字4年(760年)従三位と、急速に昇進を遂げる。天平宝字6年(762年)正月に仲麻呂の子・真先と共に参議に任ぜられる。同年11月には仲麻呂が計画した新羅征伐のため、香椎廟奉幣使となった[1]。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱で仲麻呂側に加わったため、官軍により斬殺された。一説には天平宝字7年(763年)に死去したともされる[2]。
官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。
系譜
編集『尊卑分脈』による。