藤原光房
平安時代後期の貴族。甘露寺家7代。藤原為隆の三男。正四位下・権右中弁
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藤原 光房(ふじわら の みつふさ)は、平安時代後期の貴族。藤原北家勧修寺流、参議・藤原為隆の三男。官位は正四位下・権右中弁。伊豆弁を号す。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 天仁2年(1109年) |
死没 | 久寿元年11月11日(1154年12月17日) |
別名 | 伊豆弁 |
官位 | 正四位下、権右中弁 |
主君 | 鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流 |
父母 | 父:藤原為隆、母:藤原有佐の娘 |
兄弟 | 憲方、光房、憲隆、憲光、為国、覚隆、源顕雅室、平実親室、藤原宗能室、藤原俊経室、藤原親隆室、源俊隆室 |
妻 |
源有賢の娘、藤原俊忠の娘 藤原為忠の娘、平親宗の娘 |
子 | 信方、経房、光長、隆範、定長、行舜、為頼、光綱、光慶、光玄、隆遍、中山忠親室 |
経歴
編集元永3年(1120年)に正六位上で大膳亮に任ぜられた後、白河院政期末に摂津守を務める。保延4年(1138年)伊賀守の任にあった際、光房が築造した土御門殿に崇徳天皇が還御したが、わずか7ヶ月後に土御門殿は焼亡している。
その後、勘解由次官を経て、永治元年(1141年)近衛天皇の践祚に伴い、源師能とともに五位蔵人に任ぜられ、久安3年(1147年)には右少弁も兼ねて三事兼帯となったか。久安4年(1148年)左少弁、久安6年(1150年)従四位上・権右中弁、仁平元年(1151年)正四位下と近衛朝後半は弁官を務めながら順調に昇進し、近衛天皇中宮・藤原呈子にも中宮亮として仕えた。
官歴
編集注記のないものは『弁官補任』による。
- 時期不詳:正六位上
- 元永3年(1120年) 日付不詳:大膳亮[要出典]
- 時期不詳:従五位下
- 天治2年(1125年) 9月11日:見摂津守[1]
- 時期不詳:伊豆守。春宮大進[2]
- 保延4年(1138年) 日付不詳:見伊賀守[3]
- 時期不詳:従五位上。勘解由次官[4]
- 永治元年(1141年) 12月7日:五位蔵人、止大進[4]
- 時期不詳:正五位下
- 久安3年(1147年) 正月28日:右少弁、蔵人如元(三事兼帯[2])
- 久安4年(1148年) 10月13日:左少弁[4]
- 久安6年(1150年) 4月28日:権右中弁。5月23日:従四位下(去正月自東三条還御四条第賞)。7月8日:従四位上(中宮入内職事賞)
- 仁平元年(1151年) 9月7日:正四位下(石清水行幸行事賞)
- 仁平2年(1152年) 10月20日:兼中宮亮(中宮・藤原呈子)
- 久寿元年(1154年) 11月10日:出家(権右中弁正四位下兼中宮亮)。11月11日:卒去