董 旻(とう びん)は、中国後漢末期の武将。叔穎本貫涼州隴西郡臨洮県。父は董君雅。兄は董擢・董卓

董旻
後漢
左将軍・鄠侯
出生 生年不詳
涼州隴西郡臨洮県
死去 初平3年(192年
司隸右扶風郿県
拼音 dǒng mín
叔穎
主君 董卓
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生涯

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光熹元年(189年)8月[1]何進十常侍によって暗殺された時、董旻は奉車都尉の官にあった。この時、何進の旧臣の呉匡は、何進を殺害したのは彼と不仲だった弟の何苗だと訴えた。董旻は呉匡と行動を共にし、兵を率いて、何苗を殺害した[2]

初平2年(191年)までに兄の董卓が後漢の大権を握り、一族は揃ってその朝廷に連なる。董旻の位は左将軍・鄠侯に昇った。

初平3年(192年)、董卓が王允呂布らによって暗殺される。郿の砦にいた董旻ら一族は、皇甫嵩の攻撃を受けて滅ぼされた。

羅貫中の小説『三国志演義』でも、史実に準じた立場で登場。やはり最期は皇甫嵩の討伐を受け、斬首刑に処される(第9回)[3]

出典

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脚注

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  1. ^ 司馬光『資治通鑑』漢紀51 s:zh:資治通鑑/卷059
  2. ^ 『後漢書』何進伝 s:zh:後漢書/卷69#何進
  3. ^ s:zh:三國演義/第009回