右扶風(ゆうふふう)は、古代中国の官職名、またはその治める行政区域名。

漢代に置かれ、長安周辺の県を統治した。官秩二千石[1]

のとき、首都周辺を統治するのは内史であった。項羽により雍国とされ、紀元前205年高祖2年)に中地郡として漢に編入された。紀元前198年(高祖9年)に内史に戻された[2]紀元前155年景帝前2年)[3]に内史は左右に分割された。さらに紀元前104年武帝太初元年)に右内史は右扶風及び京兆尹とされ、左内史は左馮翊と改名された[2]。また、『漢書』百官公卿表上においては、右扶風は主爵都尉(主爵中尉)を改名したものだとされているが、主爵都尉は列侯を掌ると記されており、県を統治する右扶風との関係は不明である。県を統治すると言う点ではと同格だが、人口が多く、前漢においては役所が帝都長安にあり、さらに中央官庁の1つとして数えられ、宰相候補生の適性を見る場にもなる顕職であった。

後漢では洛陽に遷都したため、右扶風の呼称はそのままであったが、その地位は下落した。

西暦2年元始2年)の統計によれば、右扶風は渭城槐里盩厔郁夷美陽栒邑隃麋陳倉杜陽好畤安陵茂陵平陵武功の21県を管轄し、戸数216,377、人口836,070であった[2]140年永和5年)の統計によれば、右扶風は槐里・安陵・平陵・茂陵・鄠・郿・武功・陳倉・汧・隃麋・雍・栒邑・美陽・漆・杜陽の15県を管轄し、戸数17,352、人口93,091であった[4]

三国時代のとき、右扶風は扶風郡と改められた。

なお、後漢初期の功労者の馬援をはじめ、その後裔筋である後漢末の馬融とその族子の馬日磾と、その同族に当たる『三国志』の群雄として著名な馬騰馬超父子らの本籍が右扶風茂陵県である。

脚注

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  1. ^ 漢書』百官公卿表上
  2. ^ a b c 『漢書』地理志上
  3. ^ 『漢書』百官公卿表上。『漢書』地理志によれば、紀元前135年(武帝の建元6年)
  4. ^ 後漢書』郡国志一