萱嶋高
萱嶋 高(かやしま たかし、1889年4月18日 - 1956年2月18日)は、大日本帝国陸軍軍人、陸軍中将。宮崎県児湯郡高鍋町出身。陸士22期、陸大32期。
萱嶋 高 | |
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生誕 |
1889年4月18日 宮崎県 児湯郡高鍋町 |
死没 | 1956年2月18日(66歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1909 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第46師団長 独立混成第18旅団長 歩兵第136旅団長 支那駐屯歩兵第2連隊長 天津駐屯歩兵隊長 |
戦闘 |
日中戦争 第二次世界大戦 |
除隊後 | 宮崎市市長 |
経歴
編集天津駐屯歩兵隊(昭和11年5月30日からは支那駐屯歩兵第2連隊)長、歩兵第136旅団長などを歴任し、太平洋戦争開戦後は、留守第6師団長から新設された第46師団の師団長となるが師団が南方に渡る前に予備役、その後召集され再び留守第6師団長。
退役後、1945年に宮崎市長に就任したが、連合国軍の進駐にともない辞職した[1]。その後、公職追放となり[2]、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、通州事件に関する証言をおこなっている。舞鶴神社の宮司を務めた[1]。
年譜
編集- 1910年(明治43年)5月28日 陸軍士官学校卒業
- 1920年(大正9年)11月22日 陸軍大学校卒業
- 1935年(昭和10年)3月7日 陸軍歩兵大佐・天津駐屯歩兵隊長として天津に駐屯[3][4]
- 1936年(昭和11年)5月30日 支那駐屯歩兵第2連隊長
- 1937年(昭和12年)7月28日、北京南方の南苑戦に参加[3]。この日夜は豊台に集結した[3]
- 1938年(昭和13年)7月15日 陸軍少将・歩兵第136旅団長
- 1939年(昭和14年)11月15日 独立混成第18旅団長
- 1941年(昭和16年)3月9日 陸軍中将・留守第6師団長
- 1943年(昭和18年)6月10日 第46師団長
- 1943年(昭和18年)10月15日 予備役
- 1943年(昭和18年)11月1日 召集・留守第6師団長
- 1945年(昭和20年)4月1日 召集解除
- 1945年(昭和20年)6月29日 宮崎市長
- 1956年(昭和31年)2月18日:死去(享年66)
栄典
編集- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[5]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[6]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[7]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[8]
- 1941年(昭和16年)9月15日 - 従四位
- 1943年(昭和18年)10月1日 - 正四位
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[9]
脚注
編集出典
編集- ^ a b 「高鍋の人物」高鍋町
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、53頁。NDLJP:1276156。 同書には「萱島高」と表記されている。
- ^ a b c d e 国立国会図書館法廷証番号2498:萱島高宣誓供述書、弁護側文書番号:1090
- ^ 極東国際軍事裁判 (1947)、170~171頁。
- ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
- ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
- ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
- ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
関連項目
編集公職 | ||
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先代 和田一次 |
宮崎市長 第8代:1945 |
次代 二見甚郷 |