萩原彦三

日本の拓務官僚

萩原 彦三(はぎわら ひこぞう、1890年明治23年)4月6日[1] - 1967年(昭和42年)10月15日[2])は、日本の拓務官僚

萩原彦三

経歴

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埼玉県大里郡御正村(現在の熊谷市)出身[1]旧制熊谷中学[3]旧制第一高校を経て[4]1915年大正4年)10月に文官高等試験に合格し[5]、翌年に東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した[6]朝鮮総督府試補、同参事官、同事務官学務局学務課長・宗教課長、殖産局水産課長、総督官房文書課長、殖産局土地改良課長、咸鏡南道知事などを歴任した[1]

その後、拓務省管理局長、同殖産局長を経て、1937年(昭和12年)5月14日に拓務次官に就任し[6][7]1939年(昭和14年)4月15日に次官を辞して退官した[8]

退官後は朝鮮鉱業振興株式会社社長、朝鮮燐鉱株式会社社長などを務めた[9]

著書

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  • 『朝鮮行政法』巌松堂、1921年5月。 
    • 『朝鮮行政法』(第8版)松山房、1933年6月。NDLJP:1908378 
    • 『朝鮮行政法』(第10版)松山房、1935年7月。NDLJP:1908426 
  • 『農村巡訪記』萩原彦三、1934年12月。 
  • 『私の朝鮮記録』萩原彦三、1960年8月。 
  • 『朝鮮の土地調査』友邦協会〈友邦シリーズ 第1号〉、1966年1月。 
  • 『日本統治下の朝鮮における朝鮮語教育』友邦協会〈友邦シリーズ 第3号〉、1966年4月。 
  • 『韓国財政の整理改革 財政顧問目賀田種太郎の業績』友邦協会〈友邦シリーズ 第6号〉、1966年10月。 
  • 『朝鮮の救癩事業と小鹿島更生園』友邦協会〈友邦シリーズ 第9号〉、1967年9月。 
  • 『日本統治下における朝鮮の法制』友邦協会〈友邦シリーズ 第14号〉、1969年6月。 
  • 『朝鮮総督府官制とその行政機構』友邦協会〈友邦シリーズ 第15号〉、1969年11月。 

脚注

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  1. ^ a b c 輓近大日本拓殖史 p.485 1934.
  2. ^ 戦前期官僚制研究会編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年。
  3. ^ 埼玉県立熊谷中学校一覧大正10年2月 国立国会図書館 2024年10月12日閲覧
  4. ^ 第一高等学校 編『第一高等学校一覧』自大正2年至3年,第一高等学校,大正1-15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/940276 (参照 2024-11-14)
  5. ^ 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、213頁。
  6. ^ a b 人事興信録 1941.
  7. ^ 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、82頁。
  8. ^ 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、82、213頁。
  9. ^ 大衆人事録 1930.

参考文献

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  • 『輓近大日本拓殖史』日本行政学会、1934年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第13版(下)』人事興信所、1941年。 
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。
先代
入江海平
拓務次官
1937年 - 1939年
次代
田中武雄