菅生村 (岡山県都窪郡)
菅生村(すごうそん)は、かつて岡山県都窪郡にあった村である。1951年(昭和26年)3月28日に倉敷市に編入され廃止された。現在は同市の菅生地区となっている。
すごうそん 菅生村 | |
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廃止日 | 1951年3月28日 |
廃止理由 |
編入合併 菅生村、中庄村、帯江村 → 倉敷市(旧) |
現在の自治体 | 倉敷市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 岡山県 |
郡 | 都窪郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
5,154人 (倉敷市・市の沿革、1951年) |
隣接自治体 |
北:清音村、山手村 東:庄村 南:中庄村、倉敷市 西:倉敷市 |
菅生村役場 | |
所在地 | 岡山県都窪郡菅生村大字西坂 |
座標 | 北緯34度36分52.1秒 東経133度45分22.2秒 / 北緯34.614472度 東経133.756167度 |
ウィキプロジェクト |
歴史
編集当地区は平安時代に作成された和名類聚抄によると、備中国窪屋郡美和郷にあったと推定される。
室町時代まで平野部一帯は内海に面した干潟で、後に戦国武将の宇喜多秀家によって造られた「宇喜多提」と呼ばれた堤防により「子位庄」・「西阪」・「生坂」・「三田」等の新田が生まれ、陸地になった。江戸時代の1672年(寛文12年)には岡山藩の支藩である岡山新田藩(生坂藩)が東雲院に置かれ周辺を支配した。
明治時代になり、三田・浅原・生坂・西坂・子位庄の村々が合併し、都窪郡菅生村(都窪郡新設前は窪屋郡)が成立する。「菅生」の由来は、同地区内にあり式内社菅生神社の論社とされている古社である菅生神社とされる。その後、大正時代には地区内の水田に灌漑用の水車が登場し、第二次世界大戦後も一面に田園が広がる農村の時代が長く続いた。
1951年3月28日に倉敷市(旧)へ編入合併された後、高度成長期になると倉敷市街地から車で数分という立地から、車社会の到来に伴って山沿いを中心に西坂台団地や生坂ハイツなどの大型団地が造成され、ベッドタウンとなる。昭和から平成にかけ、地区を通る幹線道路網が整備され、宮前などの倉敷旧市街に接する一帯は市街化が進んでいった。
1970年代、三田五軒屋線が浜の茶屋北交差点から北浜まで開通と同時期、宮前に分譲住宅地「花の街団地」が造成された。そして、同団地の周辺には次第に店が増えていった。なお、三田・生坂・西坂の平野部は市街化調整区域が多いことから、現在も田園地帯が残っている。
刀工・青江派
編集青江・祐安地区周辺は中世に「青江派」と呼ばれる刀鍛冶が活躍した土地である。備前国の刀鍛冶と並んで名刀を輩出し、青江鍛冶が作る刀は俗に備中刀(青江刀)と呼ばれた。
沿革
編集脚注
編集参考文献
編集- 『岡山県市町村合併誌 市町村編』(昭和35年)岡山県
- 巌津政右衛門『岡山地名事典』(1974年)日本文教出版社
- 岡山県大百科事典編集委員会『岡山地名事典』(1979年)山陽新聞社
- 渡辺光・中野尊正・山口恵一郎・式正英『日本地名大辞典2 中国・四国』(1968年)朝倉書店
- 下中直也『日本地名大系第三四巻 岡山県の地名』(1988年)平凡社
- 黒田茂夫『県別マップル33 岡山県広域・詳細道路地図』(2010年)昭文社