荒尾斯就
荒尾 斯就(あらお これなり)は、江戸時代中期の鳥取藩家老。倉吉荒尾家6代。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 正徳4年(1714年) |
死没 | 宝暦5年2月20日(1755年4月1日) |
改名 | 又三郎(幼名)→長佳→斯就 |
別名 | 長門、志摩(通称) |
主君 | 池田吉泰→宗泰→重寛 |
藩 | 鳥取藩家老 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:佐々長元、養父:荒尾甫就 |
妻 | 正室:荒尾氏 |
子 | 厚就 |
生涯
編集正徳4年(1714年)、旗本佐々長元の次男として江戸に生まれる。元文元年(1736年)、荒尾仙就の遺跡を相続し、倉吉荒尾分家当主となる。元文2年(1737年)12月、御職家老(執政家老)となる。
寛保元年(1741年)3月、当主甫就が菩提寺の住職選定問題で、閉門、隠居となった倉吉荒尾本家を相続、6代当主となる。延享4年(1747年)、幼くして藩主家を相続した勝五郎(池田重寛)を家老として補佐し、江戸藩邸で権勢を振るう。寛延元年(1748年)、幕府より鳥取藩が甲州川々手伝普請を命じられ、その奉行を務めた。
宝暦4年(1754年)、その乱行を憎んだ藩士相野定右衛門が、紀州藩邸の門に訴状を貼り付けたため、藩主重寛の外祖父の紀州藩主徳川宗直より、支藩因幡鹿奴藩主池田仲庸に指示があり、同年10月、華美で素行が修まらず、幼君勝五郎(重寛)の教育上好ましくない人物であるとして、勝五郎の後見を務める母・桂香院に家老職を罷免、隠居を命じられる。家督は嫡男の厚就が相続した。
宝暦5年(1755年)2月20日に急死した。享年42。同月24日には、斯就を訴えた手段を咎められ、揚屋送りとなっていた相野定右衛門も切腹した。
参考文献
編集- 「新修鳥取市史」
- 「因府年表巻5」