興聖寺 (京都市)

臨済宗興聖寺派大本山

興聖寺(こうしょうじ)は、京都市上京区にある臨済宗興聖寺派本山寺院山号は円通山。本尊釈迦如来古田織部にゆかりがあることから「織部寺」とも呼ばれる。

興聖寺
所在地 京都府京都市上京区堀川通寺之内上ル二丁目上天神町647
位置 北緯35度2分10.9秒 東経135度45分0.4秒 / 北緯35.036361度 東経135.750111度 / 35.036361; 135.750111座標: 北緯35度2分10.9秒 東経135度45分0.4秒 / 北緯35.036361度 東経135.750111度 / 35.036361; 135.750111
山号 円通山(圓通山)
宗旨 臨済宗
宗派 臨済宗興聖寺派
寺格 本山
本尊 釈迦如来
創建年 慶長8年(1603年
開山 虚応円耳
開基 伝・古田織部
別称 織部寺
文化財 紙本墨画 寒山拾得図、絹本著色 兜率天曼荼羅図(重要文化財
法人番号 1130005001137 ウィキデータを編集
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歴史

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慶長8年(1603年)に妙満寺・日重上人の弟子である虚応円耳(姓は斎藤)が、法華(日蓮)宗の教えを広めるために東隣の大応寺天正14年(1586年)に虚応が創建)から移って創建した。創建時は「興正寺」といった。現在、茶人・古田織部との関係がいわれているが、織部の妻セン(中川清秀妹)が隠棲した北野天満宮隣りの青霄院がセンの死後移転して同寺の塔頭となり、その後、豊後国岡藩の家老・古田家が織部と子らの墓を建てた関係で、昭和になってから「織部寺」と呼ばれるようになった。これは当時の住職・日種譲山の働きかけによるものである。織部は大徳寺住持・春屋宗園に参禅しており、日蓮宗の虚応に開基を頼むわけもなく、当寺と織部との関係を示す記録は一切ない[注釈 1]

江戸時代の初期に後陽成上皇及び後水尾天皇勅願所となった。

元禄14年(1701年)に日蓮宗より禅宗寺院となる。また、塔頭も数十か寺を数えるほどであったという。

天明8年(1788年)の天明の大火で仏殿(現・本堂)を残して全焼したが、その後再興された。

1887年明治20年)に臨済宗相国寺派に所属を変えるが、1953年昭和28年)に臨済宗興聖寺派の本山として独立している。

絵師・曾我蕭白とその一族の菩提寺でもある。

境内

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  • 本堂 - 元禄2年(1689年)再建。もともとは仏殿であったが、天明の大火以後は法堂も兼ねるようになり本堂となった。本尊・釈迦三尊像のほか、愛宕神社旧本地仏の地蔵菩薩像(勝軍地蔵)、藤堂高虎寄進と伝える達磨像などを安置する[1]
  • 庫裏
  • 方丈 - 杏橋幹彦による海中写真を襖絵にした「青波の襖」がある。
  • 庭園 - 池泉回遊式庭園
  • 涅槃堂
  • 茶室「雲了庵」 - 織部の院号をとって名付けられた。
  • 茶室「青松庵」 - 織部の妻の院号をとって名付けられた。
  • 開山堂
  • 東山天皇皇女福宮の墓
  • 古田織部夫妻の墓。
  • 曾我蕭白の墓
  • 土蔵 - 一切経が収められている。
  • ふれあい堂
  • 山門
  • 総門

文化財

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重要文化財

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脚注

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  1. ^ 『昭和京都名所図会 5 洛中』、p.175; 『京都の禅寺散歩』、pp.263 - 265

注釈

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  1. ^ 『加茂町史』第2巻近世編52頁には、「開基にあたって織部とのかかわりを記したものは、明治元年の『由緒』のほかにはなく、木像や画像とて近世(江戸時代)後期のもので、近世初頭までさかのぼって織部とつながるのかは、明らかでない」とある。

参考文献

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  • 「続日本高僧伝 巻第三」『大日本仏教全書 第104冊』、名著普及会、1979年
  • 竹村俊則『昭和京都名所図会 5 洛中』、駸々堂、1984年
  • 竹貫元勝『京都の禅寺散歩』、雄山閣、1994年
  • 『加茂町史 第2巻 近世編』、1991年

外部リンク

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