脇坂安親
江戸時代中期から後期の大名。播磨龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。従五位下・淡路守、図書頭。堀田正陳の四男。子に安積(熊五郎)、安致(1768.5.28-1835.9.9、勇之助、右京、靱負、荘簡
脇坂 安親(わきさか やすちか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国龍野藩7代藩主。龍野藩脇坂家9代。官位は従五位下・淡路守、図書頭。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文3年12月19日(1739年1月28日) |
死没 | 文化7年5月14日(1810年6月15日) |
改名 | 熊五郎(幼名)、安親 |
戒名 | 正秀院殿 |
墓所 |
京都府京都市右京区花園の妙心寺隣花院 東京都中野区上高田の青原寺 |
官位 | 従五位下・淡路守、図書頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治 |
藩 | 播磨龍野藩主 |
氏族 | 堀田氏、脇坂氏 |
父母 |
父∶堀田正陳 母∶水谷勝比娘 養父∶脇坂安種、脇坂安実 |
兄弟 |
堀田正邦、本多正命、本多助友、安親、 屋代忠良 |
妻 | 上田義当娘 |
子 | 安教、安董、安積、安致、六角広胖、釧、板倉勝長正室、阿琴、直 |
生涯
編集元文3年(1738年)12月19日、近江国宮川藩3代藩主・堀田正陳の四男として誕生した。
龍野藩3代藩主・脇坂安清の弟・安利は、宝永7年(1710年)に2000石を分与されて旗本となっていたが、その長男である安種には嗣子がなかった。このため寛延2年(1749年)2月29日、安親が養子となって2000石の家督を継いだ。脇坂家は安利の祖父にあたる安政が堀田家から養子入りしており、正陳の曾祖父の堀田正信は安政の兄であった。家督相続後は小普請に所属した。
宝暦9年(1759年)に本家の6代藩主・脇坂安実が早世する。安実にも嗣子がなかったため、同年7月27日に安親が養子となりその家督を継いだ。なお、旗本としての脇坂家は廃家となる。9月1日、9代将軍・徳川家重に御目見した。12月7日、従五位下・淡路守に叙位・任官する。幕命により、追手組防火職・桜田防火職・江戸城桜田門番・勅使や朝鮮通信使、大納言などの接待役などを務めた。天明4年(1784年)4月13日、次男の安董に家督を譲って隠居する。隠居後は図書頭を称した。