北条氏昉
日本の江戸時代後期の大名。河内狭山藩7代藩主北条氏彦長男で、狭山藩8代藩主。従五位下相模守。駿府加番を勤めた
北条 氏昉(ほうじょう うじあきら)は、河内狭山藩の第8代藩主。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦10年(1760年) |
死没 | 文化8年1月16日(1811年2月9日) |
改名 | 豊吉(幼名)、氏昉 |
戒名 | 願真院殿養艘宗安大居士 |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺 |
官位 | 従五位下、相模守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 河内狭山藩主 |
氏族 | 後北条氏 |
父母 | 父:北条氏彦、母:歌(竹内氏) |
兄弟 |
氏昉、落合道昌、妹(川口恒帆室)、 妹(坪内定重室) |
妻 | 正室:脇坂安親の娘・釧 |
子 |
氏喬、亀之進、氏迪(三男)、尹吉、寺殿也、 雅楽郎、保寿、娘(永井直方正室) |
生涯
編集宝暦10年(1760年)、第7代藩主・北条氏彦の長男として生まれる。明和6年(1769年)、父の死去により家督を継ぐ。相次ぐ百姓一揆や打ちこわしなどの社会不安に対応するため、安永3年(1774年)に軍用方を設置し、安永6年(1777年)には軍備充実のために軍資金の積立を行なった。安永10年(1781年)2月に駿府加番に任じられている。
しかし相次ぐ軍事費をはじめ、天明2年(1782年)7月には陣屋が焼失し、折からの天明の大飢饉でも領内が大被害を受けるなどして藩財政がさらに悪化した。このため、藩士の林弘による税制改革が寛政2年(1790年)より行なわれたが、あまり成功しなかった。享和元年(1801年)10月26日、家督を長男の氏喬に譲って隠居する。
文化8年(1811年)1月16日に死去、享年52。