羽根盛一
羽根 盛一(はね せいいち、1898年(明治31年)12月19日[1] - 1974年(昭和49年)[2])は、昭和期の内務官僚、政治家。官選第35代富山県知事、公選第2代(通算第39代)福井県知事(在任期間は1955年4月26日~1959年4月22日、1期4年)。
経歴
編集三重県多気郡出身[2][注 1]。羽根貞助の長男として生まれ、幼少期に富山県上新川郡大沢野村(現富山市)へ移住した。立命館中学校、大阪市立高等商業学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、京都帝国大学経済学部を卒業。立命館大学助教授となる[1][3]。
1929年、内務省に入省し岐阜県属となる[3]。以後、高知県書記官・警察部長、栃木県部長・警察部長、新潟県警察部長、愛知県警察部長などを歴任[2]。1947年2月、官選第35代富山県知事に就任(官選最後の知事、いわゆる公選管理知事)[1]。同年4月に知事を依願免本官となり退官した[4]。その後、公職追放(特別高等警察に関係していたため)となる[3]。
1951年に公職追放が解除され、福井県副知事に就任。1955年3月、副知事を退任。知事選挙で当選し、同年4月26日に福井県知事に就任した[5]。1950年代の緊縮財政下にあって、福井県の財政再建に取り組んだ。国道305号線・越前海岸付近にある洞穴を鳥(観光客)を呼ぶ門として「呼鳥門」と名付けたことでも知られる。
著書
編集- 『軍需増産指導推進の実情』
- 訳書
- エー.イー.バック著『都市財政論』羽根盛一、1930年。