總持寺納骨堂爆破事件(そうじじのうこつどうばくはじけん)とは、1972年昭和47年)4月6日に発生した爆弾テロ事件。後に東アジア反日武装戦線となるグループが起こした事件である。

總持寺納骨堂爆破事件
標的となった總持寺常照殿(納骨堂)
場所 日本の旗 日本
神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目
座標 北緯35度30分25.16秒 東経139度40分17.25秒 / 北緯35.5069889度 東経139.6714583度 / 35.5069889; 139.6714583 (總持寺納骨堂爆破事件)座標: 北緯35度30分25.16秒 東経139度40分17.25秒 / 北緯35.5069889度 東経139.6714583度 / 35.5069889; 139.6714583 (總持寺納骨堂爆破事件)
日付 1972年(昭和47年)4月6日
武器 消火器爆弾
犯人 「研究会」構成員
東アジア反日武装戦線「狼」の前身)
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「東アジア反日武装戦線」という名称が決まったのは1972年末であるが、本項では便宜上、それ以前の当該グループも「東アジア反日武装戦線」と呼称する。

標的の来歴

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神奈川県横浜市總持寺常照殿(納骨堂)に安置されている遺骨は、日本統治時代の朝鮮に住んでいた日本人約5000人のもので、元々京城府内の墓地に埋葬されていた。その後、無縁仏となったこれらの遺骨は、当時のソウル特別市金玄玉市長の計らいによって、1970年にソウルの市民墓地に納骨堂が建設された。しかし、この納骨堂を損壊する反日テロが相次ぎ、翌年8月15日、遂に破壊された。止む無く納骨されていた遺骨は日本に返還され、曹洞宗大本山の總持寺が預かることになった。

事件の概要

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東アジア反日武装戦線は、「朝鮮人民」の「抗議運動」に呼応するために「侵略者の骨」を安置する納骨堂を爆破することになった。決行日は三・一独立運動に因んで3月1日が選ばれた。

しかし、下見の際にメンバーの一人が寺の職員に顔を見られたことで、大事をとって当面延期しようというグループとそのまま決行しようというグループに分裂した。後者のグループは再度仲間割れをおこしてグループそのものが消滅し、結局3月1日に決行されることはなかった。

そのため、前者の延期派が準備を進め、4月6日に墓石に偽装した消火器爆弾を爆破させた。地面に大きな穴をあけ、大音響をあげたものの、納骨堂の大破には至らなかった。

参考文献

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読売新聞社・戦後ニッポンを読む、1997年) ISBN 4-643-97116-9
河出書房新社・松下竜一その仕事22、2000年) ISBN 4-309-62072-8

関連項目

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