金玄玉
大韓民国の政治家、軍人 (1926-1997)
金 玄玉(キム・ヒョノク、1926年10月27日 - 1997年1月9日)は、韓国の政治家、軍人。首都であるソウル特別市の市長(第14代)、釜山直轄市長(現・釜山広域市長)を務めた。ソウル市長時代は、ニックネームである「ブルドーザー」のごとく、積極的な開発を意欲的に行い、ソウル市の街並みを大きく変えた市長として知られている[1]。
金玄玉 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김현옥 |
漢字: | 金玄玉 |
発音: | キム・ヒョノク |
日本語読み: | きん・げんぎょく |
略歴
編集1926年10月27日、慶尚南道晋州生まれ。本貫は金海金氏[2]。日本の植民地時代に徴用され、解放後、陸軍士官学校3期生として任官した。陸軍輸送学校の校長などを務め、1961年5月の軍事クーデターの翌1962年に准将で予備役編入された後、釜山市長に任命された。3年後の1966年、朴正煕大統領の抜擢により、当時40歳の若さでソウル市長に任命された。ソウル市長時代、陸士の1期先輩である朴正煕大統領を後ろ盾にして、ソウル市の都市基盤整備を積極的に推し進め、汝矣島の再開発や南山1号、2号トンネルの整備、道路建設、ヨンドン地区の再開発、世宗路地下道建設など大規模開発事業を手がけた。
1970年4月、ソウル市が建設した市民アパートが崩壊した事故(臥牛アパート崩壊事故)の責任をとって市長の座を退いたが、翌1971年10月に内務部(現・行政安全部)の長官に就任した(1973年12月まで)[3]。1980年、政権を掌握した全斗煥や盧泰愚を中心とする新軍部勢力によって不正蓄財者とされ、表舞台から退くことになった[4][5]。その後、1981年に慶尚南道梁山郡の長安中学校の校長に就任[6]、1996年には釜山第1高等学校の校長に就任した。1995年6月に行われた釜山市長選挙に無所属で出馬したが、落選している。1997年1月9日、ソウルで死去。
脚注
編集- ^ “불도저시장 '신기루'를 세우다 - 김현옥(ブルドーザー市長‘蜃気楼’を建てた。金玄玉 KBS인물현대사(KBS人物現代史)”. 韓国放送公社 (2003年8月29日). 2011年11月8日閲覧。
- ^ “(1)김해김씨” (朝鮮語). 중앙일보 (1982年1月1日). 2022年8月17日閲覧。
- ^ 역대장관(歴代長官).行政安全部長官室ホームページ
- ^ 政治人등 17명 非理搜査발표 (政治人など17名 非理捜査発表) (PDF) .東亜日報1980年8月20日付1面
- ^ 政治非理 및 腐敗행위등 国家紀綱문란자 搜査結果 戒厳司발표(政治非理及び腐敗行為など国家紀綱紊乱者捜査結果 戒厳司発表) (PDF) .東亜日報1980年8月20日付3面
- ^ 前內務장관 金玄玉씨 시골中學校長에(前内務長官 金玄玉氏 田舎中学校校長に) (PDF) .京郷新聞1981年5月18日付6面
参考文献
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