維新体制(いしんたいせい)は、韓国第四共和国憲法の下、朴正煕非常事態をちらつかせながら独裁を敷いた体制を指す。夜間外出禁止令など、国民生活に直接影響を及ぼす制約も少なくなかった。

維新体制
各種表記
ハングル 유신체제
漢字 維新體制
発音 ユシンチェジェ
日本語読み: いしんたいせい
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もともと朴正煕政権の目標は、朝鮮半島資本主義による統一にあった。しかし、急激な民族資本の育成は、労働者層に負担を強いるものであり、1971年に行われた大統領選挙では野党新民党金大中候補に90万票差まで詰め寄られた。そのため、1972年10月に非常戒厳令を宣布(十月維新)、憲法を自らの手で改正して「維新体制」を確立した。

  • 民主主義はちょっと待ってくれ。まずは食うことだ」
  • 「二度と大国に蹂躙されない国を作る」
  • 「資本主義と共産主義のどちらが国民を豊かにするか競争しよう」

朴正煕の一存による開発独裁は、側近の離反をも招いた。アメリカカーター政権からも、「韓国の人権状況に憂慮」を表明された。1973年から1988年まで岩波書店の雑誌『世界』に「T.K生」の筆名で連載された『韓国からの通信』(岩波新書で書籍化)は、この時代の韓国を告発する内容だった[1]。維新体制は1979年10月の朴正煕の暗殺までを指すが、独裁の終焉は1987年民主化宣言を待たなければならなかった。

脚注

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  1. ^ 1980年代以後、日本の一部研究者などからは、記述の一部について、信憑性に疑問を呈する意見が出され、「書いているのは韓国人ではない(『世界』編集長だった安江良介などが「筆者」として名前を挙げられた)」という説も唱えられた。2003年になって、当時の民主化運動関係者で、日本に事実上亡命していた池明観(当時東京女子大学教授)が、自分が「T.K生」であったと名乗り出た。池は安江の協力を得ていたことも述べている。

関連項目

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