細川興祥

日本の江戸時代後期の武士。播磨三草藩3代藩主丹羽氏福次男で、常陸谷田部藩7代藩主細川興徳養子。谷田部藩世嗣

細川 興祥(ほそかわ おきさき)は、江戸時代後期の常陸国谷田部藩の世嗣。通称は靱負之助。

 
細川興祥
時代 江戸時代後期
生誕 天明7年5月20日1787年7月5日
死没 文政11年11月11日1828年12月17日
改名 丹羽氏充、細川興祥
別名 靱負之助(通称
墓所 広徳寺
常陸谷田部藩世嗣
氏族 丹羽氏谷田部細川家
父母 父∶丹羽氏福、母∶細川興文娘・冬菊
養父∶細川興徳
兄弟 丹羽氏昭興祥丹羽氏充森川俊朝
小出英武野々山兼養大道寺氏元
戸田直智伊東祐直石合清敦
朽木大綱正室、松平忠侯養女
細川興徳
なし
養子∶興民
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略歴

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播磨国三草藩主・丹羽氏福の次男として誕生した。母は細川興文の娘・冬菊。初名は氏充。正室は細川興徳の娘。

享和3年(1803年)5月13日、谷田部藩7代藩主・細川興徳の養子となる。前年、興徳の養嗣子・興昶が早世したためである。しかし、文政11年(1828年)10月16日、家督を相続することなく死亡した。42歳であった。広徳寺に葬られる。

養父・興徳は、興祥の養子・興民榊原政令の三男)を嫡孫とした。