紅葉館
歴史
編集1881年(明治14年)2月15日、野辺地尚義が東京の芝に国際交流の舞台として紅葉館を創設。300名限定の会員制料亭として設立され、豪商・中沢彦吉等が社長を務めた。1890年(明治23年)に鹿鳴館がわずか7年で消滅した後は、条約改正を睨んだ外国人接待の場、政治家・実業家・文人・華族・軍人の社交場として使われ、東京名所図会や東京銘勝会にも収録された。近くに水交社があったため、海軍関係者が頻繁に利用していた。
創業者が没したのち衰退したが、社長となった中沢銀行の中沢は、箱根塔ノ沢で人気宿を経営していた長谷川多喜(長谷川時雨の母)に運営を任せた[1]。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失し、64年の歴史に終止符を打った。4600坪に達した広大な敷地は日本電波塔株式会社に売却され、跡地には東京タワーが立っている。
「紅葉館」 明治14年(1881)に、芝の紅葉山に開業した、純和風の会員制高級料亭。紅葉の装飾を施した豪華な内装の和風建築と、紅葉をあしらった着物姿の美人女中たちの接待が評判だった。文士や政治家たちが、サロンとして頻繁に利用していた。東京大空襲で焼失。現在跡地には東京タワーが建っている。紅葉の葉の絵あり。「芝山内にて著名なる紅葉舘は東京名物の一也」と記載あり。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「紅葉館」より抜粋[2]
紅葉館ゆかりの著名人
編集- 讀賣新聞を起した子安峻が創設者の一人であったため、同社の宴会に用いられることも多かった。
- 尾崎紅葉はペンネームを同料亭からとった。尾崎紅葉とともに硯友社の文人、巖谷小波・川上眉山・小栗風葉らも出入りした。
- 後にクーデンホーフ光子の名で知られる青山光子は、小学校を終えた後、行儀見習として紅葉館の女中をしていた。
- 1891年(明治24年)には大槻文彦編纂の国語辞典『言海』の完成祝賀会が開かれた。祝賀会には、伊藤博文(当時枢密院議長)・勝海舟らが出席した(席上で伊藤博文は「もう鹿鳴館の時代ではない」と挨拶している)。【参考文献】池野藤兵衛『料亭 東京芝・紅葉館-紅葉館を巡る人々』1994年10月 砂書房