紀元前563年
年
紀元前563年(きげんぜん563ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元191年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前563年と表記されるのが一般的となった。
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
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十年紀 |
前580年代 前570年代 前560年代 前550年代 前540年代 |
年 |
前566年 前565年 前564年 紀元前563年 前562年 前561年 前560年 |
他の紀年法
編集できごと
編集中国
編集- 晋の悼公・斉の世子光・魯の襄公・宋の平公・衛の献公・曹の成公らが呉の柤で会合した。
- 晋の荀偃と士匄が偪陽を攻め滅ぼし、その地を宋の平公に与えた。
- 楚の子嚢(公子貞)と鄭の公孫輒が軍を率いて宋を攻撃した。
- 晋の荀罃が軍を率いて秦を攻撃した。
- 鄭の皇耳が衛に侵入した。
- 楚の子嚢と鄭の公孫輒が魯の西辺に侵入した。
- 楚の子嚢と鄭の公孫輒が蕭を攻略した。
- 莒が魯の東辺に侵入した。
- 晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃した。
- 鄭の尉止・司臣・侯晋・堵女父・子師僕らが子駟(公子騑)を殺害した。子産や子蟜(公孫蠆)がこの反乱を鎮圧し、子孔(公子嘉)が鄭の政権を掌握した。
- 楚の子嚢が鄭を救援し、晋を中心とする連合軍と楚軍とが潁水をはさんで対峙した。
- 晋の悼公が士匄を派遣して周の王室の紛争を調停させた。