紀元前407年
年
紀元前407年(きげんぜん407ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前6世紀 - 前5世紀 - 前4世紀 |
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十年紀 |
前420年代 前410年代 前400年代 前390年代 前380年代 |
年 |
前410年 前409年 前408年 紀元前407年 前406年 前405年 前404年 |
当時は、「メドゥリヌス、ウイブラヌス、ウオルスス、マメルキヌス、アハラが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元347年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前407年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集ギリシア
編集- アテナイの将軍トラシュブロスが、アブデラとタソス島を奪回した。
- スパルタの提督リュサンドロスは、エペソスから誘い出されてアルキビアデスと戦うことを拒んだ。しかし、補給物資の調達のためにアルキビアデスが現場を離れ、側近の操舵手アンティオコスが艦隊の指揮を預かっていた隙に、スパルタ艦隊は小キュロス率いるアケメネス朝ペルシア帝国の艦隊の応援も得て、ノティオンの海戦(Battle of Notium、エペソスの海戦とも)でアテナイ艦隊を殲滅した。
- この敗北は、アルキビアデスの政敵に、アルキビアデスの指揮権を剥奪する口実を与えた。アルキビアデスはアテナイを離れ、2度と帰還しなかった。アルキビアデスは、トラキケ・ケルソネソス(Thracian Chersonese、「トラキアの半島」の意、現在のガリポリ(ゲルポリ)半島)にあった所領を目指し、船で北へ向かった。後のアイゴスポタモイの海戦(紀元前405年)に短時間だけ参戦したことを除けば、アルキビアデスのペロポネソス戦争への関わりは、これで終わった。
シチリア
編集誕生
編集- スペウシッポス (Speusippus) - ギリシアの哲学者(紀元前339年没)
死去
編集脚注
編集注釈
出典