紀元前367年
年
紀元前367年(きげんぜん367ねん)は、ローマ暦の年である。
世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
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十年紀 |
前380年代 前370年代 前360年代 前350年代 前340年代 |
年 |
前370年 前369年 前368年 紀元前367年 前366年 前365年 前364年 |
当時は、「コルネリウス、プラエテクスタトゥス、ストルクトゥス、カピトリヌス、クラッスス、キクリヌスが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元387年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前367年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
編集できごと
編集ギリシア
編集- テーバイの将軍エパメイノンダスはペロポネソス半島へ再び侵攻したが、今回はシキオンをテーバイ方の同盟者としたものの、それ以上の成果は上げられなかった。テーバイに帰還したエパメイノンダスは、再び裁判にかけられたが、今回も無罪放免となった。
- スパルタ王アゲシラオス2世の息子であるアルキダモス3世がスパルタ軍を率い、アルカディア勢に勝利した。
- テーバイの指導者ペロピダスは、ペルシア帝国のアルタクセルクセス2世のもとへ大使として赴き、ギリシアの諸国家(ポリス)間の争いを調停する勅令を、テーバイに都合が良い形で出すよう促した。アルタクセルクセス2世はギリシア諸国に調停案を示して和平を呼びかける勅令を出したが、この提案に従おうという国はなかった。
シチリア
編集- シュラクサイの僭主ディオニュシオス1世が死去し、息子のディオニュシオス2世が後を継いだ。ディオニュシオス2世はまだ歳若く、体も弱くて経験不足であったため、亡父の義弟であるディオンが実権を握り、友人であったプラトンを説得して、その哲学原理を実際に応用して若き僭主の教育に当たらせた。
- ディオニュシオス2世は、かつて父がカルタゴに敗北した際に結んだものと同じ条件で、カルタゴと和議を結んだ。
共和政ローマ
編集- ガイウス・リキニウス・ストロがローマの護民官であった紀元前376年から紀元前367年の間、彼は、パトリキ(貴族)とプレブス(平民)の対立感情を和らげるために、数多くの法を改革した。 彼は、(ルキウス・セクスティウス・ラテラヌスとともに)リキニウス・セクスティウス法を提案し、平民のために執政官(コンスル)制度を復活させ、執政官のうち1人はプレブスから選出すること、ひとりの人間が占有できる公有地の面積に上限を設けること、債務の返済方法を法で規制することを求めた。パトリキはこれらの提案に反対したが、この年に法案は成立し、翌年の紀元前366年から発効することになった。
- マルクス・フリウス・カミルスによって、ローマのフォロ・ロマーノに、ローマ神話の女神コンコルディアを祀ったコンコルディア神殿が建てられた。
中国
編集哲学
編集誕生
編集死去
編集脚注
編集注釈
出典