紀 今守(き の いまもり)は、平安時代初期から前期にかけての貴族常陸守紀真人の子。官位正四位下播磨権守

 
紀 今守
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 不明
死没 貞観14年3月29日872年5月10日
官位 正四位下播磨権守
主君 仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀真人
兄弟 末守、今守貞守国守魚守
数雄
テンプレートを表示

経歴

編集

承和13年(846年従五位下筑前守に叙任。筑前守在任中の嘉祥2年(849年)ごろ、大宰少弐・小野恒柯との間で意見の相違により論争したが、参議勘解由長官滋野貞主から物事を正すのに役立たないとして批判を受けている[1]

文徳朝に入ると、仁寿3年(853年)従五位上、斉衡3年(856年正五位下天安元年(857年従四位下と順調に昇進し、美濃守近江介・近江権守と地方官を歴任した。なお、近江介の任にあった斉衡4年(857年)には、かつて近江国に設置されていたが既に廃絶され、長きに亘り自由に往来が行われていた相坂・大石・龍花の3ヶ所の関所について再設置を上表し、認められている[2]

清和朝では、都合2度に亘って務めた左京大夫や、摂津守山城守大和守等を歴任する。貞観4年(862年参議以上の官職にある廷臣に対して、時の政治について議論させ諸政策の効果について詳らかにするよう詔勅が出された。この際、右大臣藤原良相により参議未満の者で意見を述べさせるべき者の一人として、国司として赴任した国々で必ず声望が上がっており、良吏について論じるにはまず意見を聞くべき者である、との理由で今守の名が挙げられている[3]。貞観5年(863年)従四位上に昇叙されるとともに大和守を兼ね、左京大夫・山城守と併せて畿内三官を兼帯し、翌貞観6年(864年正四位下に至る。

政策立案能力に優れ、左京大夫を務めた際に兵士役や結保の制など京職の職務の改善策を提言したり、山城大和守の任にあった貞観6年(864年)には、出挙の停止・田租の増収・雑徭の削減を定めた貞観4年(862年)に出されたを廃止して旧に復する租税制度の改革を上言し許可されている[4]。貞観6年(864年)清和天皇が太政大臣藤原良房の邸宅である染殿第に行幸して饗宴が開催された際には、天皇に対して農民の様子を知らしめようとして、山城守として郡司百姓を率いて「耕田の礼」を行わせた[5]

貞観14年(872年)3月29日卒去。最終官位は正四位下行播磨守。後世、国守の治績を評する際に「紀今守の体に帰放す」として好評されることもしばしばあり[6]、良吏の代名詞的な存在となった。

官歴

編集

六国史』による。

系譜

編集
  • 父:紀真人[7]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:紀数雄

脚注

編集
  1. ^ 『日本文徳天皇実録』仁寿2年2月8日条
  2. ^ 『日本文徳天皇実録』天安元年4月23日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観4年12月27日条
  4. ^ 『日本三代実録』貞観6年正月28日条
  5. ^ 『日本三代実録』貞観6年2月25日条
  6. ^ 『日本三代実録』仁和3年6月8日条
  7. ^ 『尊卑分脈』

参考文献

編集