粕谷 義三(かすや ぎぞう、慶応2年8月15日1866年[1]9月23日)-昭和5年(1930年[1]5月4日)は、明治から昭和期の政治家。号は竹堂[1]。旧姓・橋本。

粕谷 義三
かすや ぎぞう
生年月日 (1866-09-23) 1866年9月23日
没年月日 (1930-05-04) 1930年5月4日(63歳没)

日本の旗 第22-23代 衆議院議長
在任期間 1923年2月17日 - 1927年3月25日
天皇 大正天皇
昭和天皇

在任期間 1920年6月29日 - 1923年2月17日
衆議院議長 奥繁三郎

当選回数 10回
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経歴

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武蔵国入間郡[1]上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本要作の長男として生まれる[2]。明治12年(1879年)に上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが、明治19年(1886年)にアメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、明治23年(1890年)に法学士を得て帰国して、自由新聞の主筆となる[1]。翌年2月、同じ入間郡豊岡町の粕谷圭助の養子となり、翌月兄佳太郞の跡を相続[1][2]。明治25年(1892年)に埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め、明治31年(1896年)の第5回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政会立憲政友会に移りながら通算10回当選を果たした[1]。入閣こそなかったものの、党の要職を歴任、大正9年(1920年)に衆議院副議長、次いで大正12年(1923年)に衆議院議長に就任した。名議長として定評があった[1]が、昭和2年(1927年)の金融恐慌の影響で第52回議会が混乱状態となり、引責辞任した。また、扇町屋銀行頭取はじめ、蓬莱生命保険武蔵野鉄道、黒須銀行、東上鉄道の役員を務めるなど[2]、実業界でも名を残した。

昭和5年(1930年)、東京にて死去。墓所は入間市の長泉寺

栄典

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親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 今井
  2. ^ a b c 糟谷義三 (男性)『人事興信録』データベース第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  4. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

参考文献

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  • 成沢光「粕谷義三」(『国史大辞典 3』(吉川弘文館、1983年) ISBN 9784642005036
  • 木坂順一郎「粕谷義三」(『日本近現代史事典』(東洋経済新報社、1979年) ISBN 9784492010082
  • 今井清一「かすやぎぞう」(『日本歴史大辞典 第2巻』(河出書房新社、1985年)656ページ ISBN 9784309609027
  • 入間市史編さん室編『入間市史 通史編』入間市、1994年

関連項目

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  • 入間市博物館 - 義三の出身地として、関係する資料を収蔵・展示している。
  • 佐藤虎次郎 - 米国留学仲間で帰国後も交流した

外部リンク

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議会
先代
奥繁三郎
  衆議院議長
第22・23代:1923 - 1927
次代
森田茂