篠原の戦い(しのはらのたたかい)は、寿永2年(1183年6月1日加賀国篠原(現・石川県加賀市篠原村地区)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。

篠原の戦い
戦争治承・寿永の乱
年月日寿永2年6月1日1183年6月22日
場所加賀国の篠原(現・石川県加賀市篠原村地区)
結果源義仲軍の圧勝
交戦勢力
源氏 平氏
指導者・指揮官
源義仲 平維盛
斎藤実盛 
戦力
5,000騎(玉葉 40,000余騎(玉葉)
損害
壊走
治承・寿永の乱

経過

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倶利伽羅峠の戦いでの敗北により、平維盛が率いる平氏軍は京方面へ北陸道を上って、加賀国篠原に陣を布く。『平家物語』によると平氏軍はそこで人馬を休息させようとしたが、源義仲軍は同地で平氏軍を捉えた。5000騎にも満たない義仲軍に対して、平氏側の軍勢は4万騎いたが、合戦が終わって甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てて山林に逃亡したが、ことごとく討ち取られた。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊藤原景家、忠経(藤原忠清の子)らは一人の供もなく逃げ去った。この3人の侍大将と、大将軍(平維盛)らの間で内輪もめをしている間に敗北に及んだという(『玉葉』寿永2年6月5日条)。平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走し、義仲軍の圧勝であった。

『平家物語』「篠原」「実盛」の章段において、平氏軍の老将斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中、殿(最後尾)の守備を引き受けた奮戦ぶりが描かれている。かつて義仲の父源義賢大蔵合戦で討たれた際に、実盛は幼い義仲を木曾へ逃がした恩人であったと語られている。この逸話は修羅物のの演目となっている。

この後、6月6日に敗れた平家軍が出陣した時の半数となって帰京し、義仲は10日に越前、さらに13日には近江へ入った。義仲軍の近江到着の報が京に届いた頃、鎮西反乱を鎮圧した平家の家人平貞能が帰京し、数万の軍勢を期待されたが、実際には1,000余騎程度で人々を大いに落胆させている。義仲は6月に都への最後の関門である延暦寺と交渉し、7月に入京を果たした。その直前に平氏一門は京を離れ西方へと逃れていった。

関連項目

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加賀市手塚町にある、樋口次郎兼光が討ち取った斎藤別当実盛の首を洗ったと伝えられる池。