箕輪 登(みのわ のぼる、1924年3月5日 - 2006年5月14日)は、日本政治家医師郵政大臣第42代)、防衛政務次官衆議院議員(8期)を歴任した。

箕輪 登
みのわ のぼる
生年月日 1924年3月5日
出生地 日本の旗 日本 北海道小樽市
没年月日 (2006-05-14) 2006年5月14日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本 北海道札幌市
出身校 北海道帝国大学
所属政党 自由民主党
称号 勲一等瑞宝章

日本の旗 第42代 郵政大臣
内閣 鈴木善幸改造内閣
在任期間 1981年11月30日 - 1982年11月27日

選挙区 旧北海道1区
当選回数 8回
在任期間 1967年1月30日 - 1990年1月24日
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来歴

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北海道小樽市生まれ。小樽市中学校(現:北海道小樽潮陵高等学校、小樽市立長橋中学校)、北海道帝国大学(現:北海道大学)医学専門部卒業。第二次世界大戦末期の1945年3月に陸軍軍医見習士官に任官し、同年8月に終戦を迎える。翌1946年より日本医療団寿都病院(現:寿都町立寿都診療所)外科医長。1948年寿都町に箕輪外科医院を開業。1952年小樽市に戻り、稲穂で箕輪外科医院を開業。

1960年薄田美朝(元警視総監。後に衆議院議員)に見出され第29回衆議院議員総選挙旧北海道第1区(定数5)から保守無所属で出馬したが、立候補者9人中7位で落選する(当時の旧北海道1区では日本社会党横路節雄自由民主党椎熊三郎(元衆議院副議長)、高田富與(元札幌市長)ら有力候補がしのぎを削っていた)。1962年から、佐藤栄作(当時は北海道開発庁長官)の秘書兼主治医を務める。

1967年、自民党公認で第31回衆議院議員総選挙に旧北海道1区から出馬し、得票数4位で初当選を果たした(当選同期に山下元利増岡博之加藤六月塩川正十郎河野洋平中尾栄一藤波孝生武藤嘉文坂本三十次塩谷一夫山口敏夫水野清など)。当選後は佐藤が率いる佐藤派に入会。以後、8期連続当選。1972年の佐藤派分裂後は田中派に所属した。同年、第2次田中角栄内閣防衛政務次官に任命される。1981年鈴木善幸改造内閣郵政大臣に任命され、初入閣を果たした。

1987年の北海道知事選挙では元農林水産官僚松浦昭を擁立したが、松浦は現職の横路孝弘知事に大敗し、自民党北海道連会長であった箕輪は引責辞任に追い込まれた。田中派分裂に当たっては経世会に参加。

1990年脳梗塞を患い政界を引退。リハビリにより言語障害を克服し、その後は地元・小樽市で私立病院の顧問を務める。

九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めていた[1]

2006年5月14日、肺炎のため札幌医科大学附属病院で死去。享年82。

人物

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自衛隊イラク派遣反対運動

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箕輪は防衛政務次官経験者であり、安全保障面ではタカ派であったが[要出典]2004年自衛隊イラクへの派遣に反対する運動に参加し、国を相手取り札幌地裁に提訴する(自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟)[2]2005年3月28日に提訴された二次訴訟の原告には、日本社会党代議士だった竹村泰子日本共産党代議士だった児玉健次市民運動活動家の花崎皋平ら、様々な政治的立場の人物が加わっている[3]。箕輪自身も訴訟への賛同者を募るため、精力的に全国各地へ赴き、講演・執筆活動を行なっていた。イラク日本人人質事件では、自身を身代わりにして人質を解放するよう、犯人グループに呼びかける声明を発表した[4]。また、福田康夫内閣官房長官(当時)らが主張した「自己責任論」に反論し、人質の日本人3名を擁護した[5]。箕輪の死後、2007年11月19日に札幌地裁は原告の訴えを退ける判決が下したが[6]、原告側は札幌高裁控訴した。

著書

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外部リンク

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脚注

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公職
先代
山内一郎
  郵政大臣
第42代:1981年 - 1982年
次代
檜垣徳太郎
議会
先代
増岡博之
  衆議院運輸委員長
1978年 - 1979年
次代
古屋亨
先代
大村襄治
  衆議院安全保障特別委員長 次代
愛知和男