筑紫薩夜麻
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人物
編集「筑紫君」という氏姓からすると、継体天皇21年(527年)に大和政権に叛逆した、筑紫君磐井の系譜を引いていると想定される。磐井の墓は筑後国上妻郡の岩戸山古墳であるところから、薩夜麻もこの地域を本拠地とする国造であった可能性が高く、上陽咩郡の大伴部博麻と主従関係にあったことが推測される、と鬼頭清明は述べている。
史料
編集『日本書紀』の「天智紀」(巻第二十七)と「持統紀」(巻第三十)に二度あらわれる。
對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。
対馬の国司が大宰府に使いを遣わして報告した。さる2日に、沙門道久(ほうし どうく)・筑紫君薩野馬・韓嶋勝裟婆(からしま の すぐり さば)・布師首磐(ぬのし の おびと いわ)の4人が唐より来て、「唐国の使節の郭務悰600人、護衛の沙宅孫登等1400人、合わせて2,000人が、47隻の船に乗って、共に比知島に停泊していて、両人共に言うには、現在、我々の人船は多数であり、突然やって来ると、恐らく対馬の防人は、驚いて戦いになるだろう。そこで道久等を遣して、予め少しだけ来朝する意向を示し申します」と言った。 — 日本書紀、天智天皇十年、十一月十日条
詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并絁五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。
軍丁で、筑後国上陽咩郡(かみつやめのこおり)の人、大伴部博麻(はかま)を召出して「斉明天皇7年(661年)の百済救援戦で、お前は、唐軍の捕虜になった。天智天皇の3年[1]に及んで、土師連富杼(はじ の むらじ ほど)・氷連老(ひ の むらじ おゆ)・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶(ゆげ の むらじ がんほう)の児の4人が、唐人の計画を連絡したいと思ったが、衣食にも困っていて、できないことを憂えた。そこで博麻は、土師富杼等に『私は、貴方と一緒に、日本に帰還したいが、衣食にも困る状態で、一緒に去ることはできない。お願いします、私の身を売って、衣食代に充ててください』と言った。富杼等は、博麻の計画のとおりに日本に帰り着くことができた。お前は、一人外国に長く留まり、今年で30年になる。朕は、その朝廷を尊び国を愛して、自分を売って忠誠を示すことを歓ぶ。そこで、務大肆の官位を与え、あわせて絁5匹・綿11屯・布30端・稲1,000束・水田4町を賜ろう。その水田は曾孫まで相続させる。三族の課役を免除して、その功をあらわす」と仰った。 — 日本書紀、持統天皇四年、十月二十二日条
以上の記述より、唐の日本侵攻計画を伝えるべく、急遽日本に帰国したことが語られている。
考証
編集唐が百済を滅ぼした後、百済旧域を占領するために設置した熊津都督府内に、百済で活動していた日羅などのような倭人が存在したことを暗示する記録がある[2]。熊津都督府は、665年8月に唐勅使劉仁願の立会で熊津都督の扶余隆と新羅文武王の間で領土保全などを約束した羅済会盟を実現させたが、その模様を詳述する『冊府元亀』[3]『資治通鑑』[4]『旧唐書』[5]には、羅済会盟直後に倭人が登場する[2]。同史料によると、羅済会盟後に百済鎮将劉仁軌が新羅、百済、耽羅、倭国の四カ国の使を率いて泰山の封禅の儀に赴いているが、儀礼の様子以外にも準備段階からそれら四カ国を含む諸蕃酋長が扈従を率いて行列に従駕したことを記している。熊津都督府のもと倭人を同行させるなど当時の熊津都督府内に倭人がいたことは確かであり、池内宏は、これらは熊津都督府に抑留または残留した倭人とみた[2]。倭人は白村江以後も旧百済地域に滞在していたが、磐井や日羅が時に百済王権の立場から行動したように、倭人が熊津都督府に従事し、664年からの白村江の戦後処理の対倭交渉は、熊津都督府の倭人の既存ネットワークによって行われた部分も多かった[2]。671年に熊津都督府は、道久、筑紫薩夜麻、韓嶋裟婆、布師磐の4人を、唐人郭務悰一行の先発隊として対馬に送っているが[6]、『日本書紀』によると、筑紫薩夜麻は白村江の戦いで捕虜となり、熊津都督府にいた[7]。また道久、韓嶋裟婆、布師磐も同様の立場とみられる[2]。熊津都督府は倭人たちを自身の傘下に組み込み、熊津都督府の意向のもと、こうした倭人たちを外交活動に活発に活用した[2]。筑紫薩夜麻の先代は筑紫君磐井につながる豪族とみられる[2]。韓嶋裟婆は、「韓嶋」という氏からみて豊前国宇佐郡辛島郷の豪族と推定される。熊津都督府が唐人郭務悰一行の先発隊として対馬に派遣した4人のうちの2人もが、歴史的に朝鮮半島西南(百済地域)とパイプをもつ北九州と関係のある豪族であり、白村江以後の熊津都督府においても倭人の旧来のネットワークを継承・活用したことを示している[2]。
脚注
編集- ^ ここで言う「天智天皇の3年」は、天皇が即位して3年目という意味と推測され、称制9年のことである。そのように考えると、上記の史料にある「天智天皇10年」(即位4年)に帰国したという記述と符合する。
- ^ a b c d e f g h 近藤浩一『白村江直後における熊津都督府の対倭外交』『人文×社会』編集委員会〈人文×社会 1 (4)〉、2021年12月15日、30-33頁。
- ^ 開府儀同三司新羅王金法敏・熊津都尉扶余隆,盟干百済之熊津城。初百済自扶余璋与高麗連和,屢侵新羅之地,新羅遣使入朝求救,相望於路。及蘇定方既平百済軍回,余衆又叛。鎮守使劉仁願・劉仁軌等,経略数年,漸平之。詔扶余隆,及令与新羅和好。至是,刑白馬而盟。先祀神祇及川谷之神,而後歃血。其盟文曰,…。劉仁軌之辞也。歃訖,埋書弊弊於壇下之吉地,蔵其盟書於新羅之廟。於是,仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四国使,浮海西還,以赴太山之下。 — 冊府元亀、外臣部二十六、盟誓・高宗麟徳二年年八月条
- ^ 同盟于熊津城。劉仁軌以新羅・百済・耽羅・倭国使者浮海西還,会祠泰山。 — 資治通鑑、麟徳二年八月条
- ^ 麟徳二年,封泰山。仁軌,領新羅及百済・耽羅・倭四国酋長,赴会。 — 旧唐書、劉仁軌伝
- ^ 十一月甲午朔癸卯,対馬国司,遣使於筑紫大宰府言,月生二日,沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人,従唐来曰,唐国使人郭務悰等六百人,送使沙宅孫登等一千四百人,総合二千人,乗船册七隻,倶泊於比知島,相謂之曰,今吾輩人船数衆,忽然到彼,恐彼防人,驚駭射戦,乃遣道文等,予稍披陳来朝之。 — 日本書紀、天智十年十一月甲午朔癸卯条
- ^ 詔軍丁筑紫国上陽咩郡人大伴部博麻曰,於天豊財重日足姫天皇七年,救百済之役,汝為唐軍見虜。洎天命開別天皇三年,土師連富杼・氷連老・筑紫君薩野馬・弓削連元宝児,四人,思欲奏聞唐人所計,縁無衣糧,憂不能達。 — 日本書紀、持統四年十月乙丑条