筑紫広門 (主水正)
筑紫 広門(つくし ひろかど、天正2年10月7日(1574年10月21日)[1] - 正保3年7月11日(1646年8月21日))は、江戸時代前期の武将・旗本寄合席。筑紫氏当主。諱は春門、従門、茂成、のちに広門。通称は善吉郎、官位は従五位下主水正。石高3000石。文書や系図により差があるが、『寛政重修諸家譜』では兄で養父が筑紫広門(上野介)、甥で養弟に栄門(掃部)と重門(左近)と辰門がいたとしている。
生涯
編集「武藤系図」では天正2年(1574年)に勝山出生としている。『寛政重修諸家譜』では筑紫惟門二男、正保3年(1646年)死去・享年73としている。享年からの逆算で天正2年出生は「武藤系図」と一致しているが、同じく『寛政重修諸家譜』記載の父とされる惟門の没年・永禄10年(1567年)とは矛盾している。武藤系図では広門(主水正)を「一本春門」、筑紫系図で広門(上野介)の子を春門としているので、広門(上野介)の弟・左衛門大夫晴門(春門)と広門(主水)との混同や左衛門大夫晴門(春門)の実子である可能性がある[2]が[3]、享年に加えて、寛政重修諸家譜でわざわざ「惟門二男」、「広門(上野介)の養子」と広門(上野介)の実子でないことが記されているので、少なくとも惟門の実子ではない広門(上野介)の養子の可能性が高い。
慶長3年11月18日(1598年12月16日)に、島津義弘、立花宗茂、宗義智、高橋直次、小早川秀包、寺沢広高らと共に露梁海戦に参戦した[4]。
慶長4年(1599年)に父の継嗣となり広門と改名、従五位下・主水正に叙任される。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に味方して大津城の戦いに参戦、西軍敗北により浪人(処士)となり肥後国に住む。慶長19年(1614年)に小倉藩主細川忠興に就いて以前の罪を謝し、大坂の陣に参戦する。元和元年(1615年)に京都で徳川家康に拝謁した。
寛永4年(1627年)8月25日に旗本寄合席に列し、知行地として豊後国速見郡に3000石を与えられる。
葬地は浅草永見寺。永見寺は代々の葬地となる。家督と知行は養子の信門が相続した。法名は『寛政重修諸家譜』では「良鐡」、『武藤系図』では「勢巌良鐡居士」としている[5]。前述のとおり『寛政重修諸家譜』では正保3年(1646年)死去・享年73とされる。