第36師団(だいさんじゅうろくしだん)は、大日本帝国陸軍師団の一つ。

第36師団
創設 1939年(昭和14年)2月7日
廃止 1945年昭和20年)
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位 師団
兵種/任務 歩兵
所在地 北支-ニューギニア
編成地 弘前
通称号/略称
補充担任 第8師管弘前師管弘前師管区
最終上級単位 第2軍
最終位置 ニューギニア サルミ
戦歴 日中-太平洋戦争
(ニューギニアの戦い)
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沿革

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日中戦争が泥沼化するなかで、占領地の警備や治安維持を目的として1939年(昭和14年)2月7日に新設された師団の一つであり、同時に第32師団第33師団第34師団第35師団第37師団が新設された。また同年6月30日には第38師団第39師団第40師団第41師団が新設された。

編成後北支那方面軍第1軍隷下、華北に在って、ほかの治安師団と同様に1939年夏以降に行われたさまざまな治安作戦に参加する。

1943年(昭和18年)10月に南方移動を命じられ、同年11月5日に海洋編制師団へ改編、ニューギニアへ転用され第2軍に編入された。当初、関東軍所属として、対ソ戦の準備のため満洲に配備が予定されていた。しかし、太平洋の戦局悪化に伴い、急遽南方戦線に投入された。上海から蘭印のハルマヘラを経由して、西部ニューギニアのサルミ地区に上陸した。サルミに司令部を置き、同地で連合軍の上陸に備え防衛体制の整備に着手した。その後、ビアク島に上陸した歩兵第222連隊を基幹として、ビアク支隊(支隊長:葛目直幸大佐)が編成され、ビアク島の防衛を担当した。

1944年(昭和19年)4月22日に米軍がホーランジアに上陸を開始すると、迎撃に向かうが、米軍が5月17日にサルミ地区東方のトムにも上陸、迎撃隊は反転してトムに移動して迎撃した。ビアク島でも5月27日に米軍が上陸、一時はビアク支隊により米軍を撃退したが、反撃され約40日間の戦闘で葛目連隊長は自決、ビアク支隊は全滅した。師団主力もサルミに上陸して来た米軍と交戦、対峙した。同年6月以後から師団は攻撃を断念、米軍も進撃をしないまま小競り合い程度になり、そのまま持久戦が続いた。その後、将兵は散発的な戦闘を行い、飢餓とも闘いながら終戦を迎えた。

師団概要

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歴代師団長

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  • 舞伝男 中将:1939年(昭和14年)3月9日 - 1940年8月1日[1]
  • 井関仭 中将:1940年(昭和15年)8月1日 - 1943年2月28日[2]
  • 岡本保之 中将:1943年(昭和18年)2月28日 - 1943年10月1日[3]
  • 田上八郎 中将:1943年(昭和18年)10月1日 - 終戦[4]

参謀長

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  • 田辺助友 歩兵大佐:1939年(昭和14年)3月25日 - 1941年3月1日[5]
  • 今田新太郎 大佐:1941年(昭和16年)3月1日 - 1945年4月7日[6]
  • 二宮義雄 大佐:1945年(昭和20年)4月7日 - 1945年5月24日[7]
  • 今田新太郎 少将:1945年(昭和20年)5月24日 - 終戦[6]

最終所属部隊

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  • 歩兵第222連隊(弘前):葛目直幸大佐(ビアク島で玉砕)
  • 歩兵第223連隊(秋田):吉野直靖大佐
  • 歩兵第224連隊(秋田):松山宗右衛門大佐
  • 第36師団戦車隊:藤村忠之少佐
  • 第36師団輜重隊:
  • 第36師団通信隊:間瀬三郎少佐
  • 第36師団兵器勤務隊:小枝八五郎少佐
  • 第36師団野戦病院:細矢利次軍医大佐
  • 第36師団防疫給水部:斎藤恒友軍医少佐

脚注

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  1. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』243頁。
  2. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』273-274頁。
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』265頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』334頁。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』354頁。
  6. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』420頁。
  7. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』453頁。

参考文献

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  • 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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