竹敷村
日本の長崎県下県郡にあった村
竹敷村(たけしきむら)は、長崎県下県郡にあった村。1932年(昭和7年)に南隣[1]の雞知村に編入した。
たけしきむら 竹敷村 | |
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廃止日 | 1932年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 竹敷村 → 雞知村 |
現在の自治体 | 対馬市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 九州地方 |
都道府県 | 長崎県 |
郡 | 下県郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
1,101人 (角川日本地名大辞典42 長崎県「竹敷村(近代)」、1925年) |
隣接自治体 | 下県郡雞知村、船越村 |
竹敷村役場 | |
所在地 | 長崎県下県郡竹敷村大字竹敷 |
座標 | 北緯34度17分42秒 東経129度18分03秒 / 北緯34.29497度 東経129.30075度座標: 北緯34度17分42秒 東経129度18分03秒 / 北緯34.29497度 東経129.30075度 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集対馬島の中部に位置する。村域は複雑で、大字尾崎の全域・大字黒瀬の西部(黒瀬湾を挟んで西側)・大字竹敷の東部(高坊浦と白連江浦に接する北岸一帯)の3箇所が飛地となっている[2][3]。
沿革
編集当村域の一帯について、中世は「与良郡」の一部、近世は「与良郷」の一部に属した[4][5][6]。また『津島紀事』によれば、与良郷内には1府30村[7]が属していたとされる[6]。与良郷は対馬島内の他の各郷とともに明治5年に廃止された[6]。
明治以降は軍事拠点としての性格を強める。日清戦争以降、竹敷港は艦隊根拠地としての重要性が一段と高まり[8]、1896年(明治29年)に日本海軍初の要港部となる竹敷要港部が設置された[9][10]。
地名
編集大字を行政区域とする。
- 尾崎(おさき)
- 黒瀬(くろせ)
- 島山(しまやま)
- 竹敷(たけしき)
- 昼ヶ浦(ひるがうら)
名所・旧跡
編集参考文献
編集- 角川日本地名大辞典 42 長崎県
- 平山棐 編『津島紀事』350頁-414頁(1917年)国立国会図書館デジタルコレクション
- 長崎縣告示第二百二十號『下県郡竹敷村を廃しその区域を雞知村に編入の件』長崎県公報 昭和7年3月28日付
脚注
編集- ^ 市町村変遷パラパラ地図 完全版 長崎県 1932年1月1日
- ^ 村役場所在地の大字竹敷(西部)を基点とした場合。島嶼部は除く。
- ^ 長崎県下県郡竹敷村 (42B0030007) | 歴史的行政区域データセットβ版 Geoshapeリポジトリ
※上記リンク先地図の着色箇所に加え、大字竹敷の東部飛地である現在の対馬空港北方も村域となる。 - ^ 対馬6町合併のあゆみ 対馬6町合併協議会(総務省 合併デジタルアーカイブ)
- ^ 角川日本地名大辞典 42 長崎県「与良郡」
- ^ a b c 角川日本地名大辞典 42 長崎県「与良郷」
- ^ 府中である厳原城下のほか、雞知(けち)・洲藻・箕形・吹崎・賀志・尾崎・昼浦・島山・大山・犬吠・小船越・鴨居瀬・芦浦・賀谷・横浦・濃部・大船越・久須保・緒方・竹敷・黒瀬・根緒・小浦・南室・久田・尾浦・安神・久和・内院・内山の各村からなる。上記のうち内院村は江戸時代初期に与良郷と豆酘郷の境界として分割され、与良郷側の内院村は「与良内院村」とも称する。
- ^ a b 九州の近代土木遺産『深浦水雷艇隊基地跡』 公益社団法人土木学会西部支部
- ^ 勅令第3号「要港ヲ定ムルノ件」 官報.1896年1月21日
- ^ 勅令第237号「竹敷要港境域」 官報.1896年6月3日
- ^ 長崎縣令第二十號『対馬の各町村合併及びその名称に関する件[1]、[2]』長崎県公報 明治41年3月25日付号外
- ^ 勅令第59号「要港ヲ定ムルノ件及竹敷要港境域ノ件廢止」 官報.1923年3月26日
関連項目
編集- 長崎県の廃止市町村一覧
- ロシア軍艦対馬占領事件 - 江戸時代に後の当村域にあたる昼ヶ浦村芋崎で発生したロシア帝国軍艦による占拠事件。