竹久みち
竹久 みち(たけひさ みち、1930年(昭和5年)1月[1] - 2009年(平成21年)7月24日[2])は、昭和時代の服飾デザイナー、実業家。本名は小島 美知子[2](こじま みちこ)。東京都出身[3]。ペンネームの「竹久」は、竹久夢二にあやかって命名したものである。
たけひさ みち 竹久 みち | |
生年月日 | 1930年1月 |
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没年月日 | 2009年7月24日 |
出身地 | 東京都 |
国籍 | 日本 |
学歴 | 旧制共立女子専門学校生活科(現:共立女子大学) |
職業 | 服飾デザイナー、実業家 |
三越社長を務めた岡田茂の愛人でもあり、同社の経営にも介入するなどして「三越の女帝」の異名でも呼ばれたが、1982年の「三越事件」で岡田とともに逮捕され、有罪判決を受けて服役した。
概説
編集旧制共立女子専門学校生活科(現:共立女子大学)を卒業した[2]後、1957年(昭和32年)文化学院デザイン科を卒業。
文化学院在学中から、銀座で「ヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰。上野松坂屋、銀座松坂屋などと取引。テレビ各局に出演し、アクセサリーについて語る。アクセサリー研究所は、改称、転居を経て、1960年(昭和35年)からは、六本木で「竹久みちアクセサリーデザインスクール」として、国内初のアクセサリーデザイナーの養成を始める。これは、のちに「竹久みちアクセサリー学院」と改称するも、1983年(昭和58年)に閉鎖。
1952年に結婚して長女を出産したが、1957年に離婚[3]。
1963年、三越の宣伝部長(当時)の岡田茂との知遇を得て[2]、その愛人となった。岡田が三越の社長に就任した1972年以降、竹久の会社「オリエント交易」は三越の大口納入業者となった[2]。これにより多額の取引手数料を手にしたほか、三越の社内人事にも介入するようになり、竹久は「三越の女帝」と呼ばれた[2]。しかし1982年に「三越事件」によって岡田が社長を解任され、竹久は三越社内への影響力を失った。その後はクィーンズオーキッド株式会社を設立し、代官山の自社ビルでアートフラワーの販売を続けた。
岡田が社長を解任された翌月、三越に約18億円[2]の損害を与えたとして岡田とともに逮捕され、特別背任罪[2]と所得税法違反の容疑で起訴された。最高裁判所まで争ったが、1997年10月に最高裁で上告が棄却され、懲役2年6月および罰金6,000万円の実刑判決が確定し[2]、栃木刑務所に収監された。
2009年(平成21年)7月24日午後1時頃に、東京都内の病院にて死去。79歳没[2]。晩年の2008年(平成20年)12月に動脈瘤を患っていた[4]。
著書
編集- アクセサリー教室 : 作り方技術のすべて 竹久みち 著 鎌倉書房 1965
- アクセサリー 竹久みち 著 保育社 1967 (カラーブックス)
- ふりむかない私 : "女帝"といわれた私の真実 竹久みち 著 講談社 1985
- 『報道被害 11人の告発』(1991年、創出版) - 共著・編著
- 罪名女 : もうひとつの「三越事件」 竹久みち 著 ごま書房 2004