立花通栄
立花 通栄(たちばな なおちか[1])は、江戸時代後期の筑後国柳河藩の家老。柳河藩家老家の一つである立花織衛家の2代目。石高1000石。家格は大組外。『立花織衛家文書目録』掲載系図では吉田兼儔(舎人)の実兄にあたるとしている。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 文政7年(1824年) |
改名 | 為之丞(幼名)→通栄(読み:なおまさ→なおちか) |
別名 | 織衛(通称) |
墓所 | 福厳寺 (柳川市) |
主君 | 立花鑑通→鑑寿→鑑賢 |
藩 | 筑後国柳河藩家老 |
氏族 | 戸次氏→立花氏 |
父母 | 父:戸次通孝 |
兄弟 | 通栄、吉田兼儔、吉、親傳、馬之助 |
妻 | 酉(立花鑑通の娘) |
子 | 5男3女 |
経歴
編集部屋住み時代から藩に勤仕する。安永6年(1777年)に織衛の通称を拝領。安永9年(1780年)に織衛家の家督を相続し、天明元年(1781年)に父・通孝と同様、伯父(通孝の実兄)で藩主の立花鑑通より一字拝領され、諱を通栄とする。
義兄弟の立花寿賰らと豪傑組を組織して、安東省菴以来の藩学の改変や勤倹尚武を唱える藩政改革を行うが、義弟の立花鑑寿に信任された守旧派家老の小野勘解由により、寛政10年(1798年)に寿賰と共に家老職を一時免職される(豪傑崩れ)。その後、家老に復職し立花姓を賜る。
文政5年12月(1823年)に、士中家譜御改を仰せ付けられる[2]。文政7年(1824年)死去。墓所は福岡県柳川市奥州町の福厳寺。