秋月種備

日本の江戸時代中期~後期の武士。日向高鍋藩7代藩主秋月種茂五男で、江戸幕府旗本秋月種穀養子。旗本秋月氏7代当主。本所深川出火之節(火事場)見廻役を勤める

秋月 種備(あきづき たねとも)は、江戸時代中期の旗本寄合席通称は式部。高鍋藩秋月家分家の旗本寄合席・木脇領主秋月家7代当主。石高日向国諸県郡宮崎郡内3,000石。

 
秋月種備
時代 江戸時代中期
生誕 明和3年(1766年[1]
死没 寛政5年7月11日1793年8月17日
改名 和三郎、種備
別名 式部(通称)
戒名 紹観
墓所 広徳寺の梅雲院
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家斉
氏族 秋月氏
父母 秋月種茂松平明矩娘盈子
秋月種穀
兄弟 種徳、ケイ、黒田長舒、チセ、岩次郎、
常三郎、種備、松五郎
堀親長
秋月種賀正室、種賀
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生涯

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秋月種茂の五男として誕生。幼名は和三郎。兄に高鍋藩主となる秋月種徳秋月藩黒田長舒がいた。

安永5年(1776年)に種穀の死を受けて、11歳で高鍋藩分家の旗本寄合席秋月家を相続し、天明8年4月1788年)に徳川家斉に初めて御目見を済ます。

寛政3年(1791年)刊行の須原屋茂兵衛蔵版の武鑑において、御寄合衆に「秋月式部」とある。また、同年7月17日(1791年8月16日)より本所深川火事場見廻役に就任する。

寛政5年(1793年)に死去。享年28。法名は紹観。墓所は下谷広徳寺の梅雲院。

男子がいなかったために、高鍋藩連枝の新小路秋月家当主である秋月種懐(此面)の子で、従弟にあたる種賀を婿養子に迎えて跡を継がせている。

系譜

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脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』に記載される享年からの逆算

参考文献

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  • 『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、昭和40年(1965年))
  • 『改定増補 大武鑑 中巻』(橋本博、昭和40年(1965年)、名著刊行会)
  • 「高鍋町史」(高鍋町史編纂委員会、高鍋市、昭和62年)