穐吉敏子

日本人ジャズピアニスト、作曲家、編曲家、バンドマスター (1929-)
秋吉敏子から転送)

龝吉 敏子[注釈 1](あきよし としこ、: Toshiko Akiyoshi1929年12月12日[1] - )は、ニューヨーク在住の日本ジャズピアニスト作曲家編曲家ビッグバンドリーダー。娘はミュージシャンのMonday満ちる

穐吉 敏子
1978年
基本情報
出生名 同じ
生誕 (1929-12-12) 1929年12月12日(95歳)
出身地 満洲遼陽
学歴 バークリー音楽院卒業
ジャンル ジャズ
職業 ピアニスト
作曲家
編曲家
ビッグバンドリーダー
担当楽器 ピアノ
活動期間 1952年 - 現在
レーベル ワーナーミュージック・ジャパン
共同作業者 ルー・タバキン

来歴

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1955年
 
左から夫のチャーリー・マリアーノ、エディ・マーシャル、龝吉、ジーン・チェリコ。1961年1月26日、東京放送テレビ(現・TBS)のホールにて[2]
 
1964年7月10日から16日にかけて、東京、大阪、京都、名古屋、札幌で「第1回世界ジャズ・フェスティヴァル」が開催された。龝吉は日比谷野外音楽堂で行われたJ・J・ジョンソン・オールスターズのコンサートにピアノで飛び入り参加した[3][4]。写真は左から龝吉、J・J・ジョンソンソニー・スティットクラーク・テリー

満洲(現、中国東北部遼陽[1]に日本人の両親の元に生まれた。小学1年生のときに3年生が弾く『トルコ行進曲』に魅せられ、小学1年生でピアノを習い始める。後に女学校に通うためと、より良い教師にピアノを習うために大連に移り、大連音楽学校で中国人の楊孝毅にピアノを習う。敗戦後に大分県引き揚げ別府の駐留軍キャンプ「つるみダンスホール」でジャズピアニストとして演奏を開始。

1948年夏に上京して、1952年、コージー・カルテットを結成。

1953年11月、ノーマン・グランツのプロデュースの下、ハーブ・エリス(ギター)、レイ・ブラウン(ベース)、J. C. ハード(ドラム)とともにデビューアルバムのためのレコーディングを行った。翌1954年、アルバム『トシコズ・ピアノ』を発表。

1954年7月、伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で、守安祥太郎を中心に行われた伝説的なジャム・セッションに参加。その時の音源は1970年代に発掘・発売される。

1956年1月15日、26歳で単身渡米した。午前2時にボストン空港に降り立った龝吉はその日の夜、ジョージ・ウェインに連れられてウェインのナイトクラブ「ストーリーヴィル」に入った。ストーリーヴィルではバド・パウエルのライブが行われていた。ドラムを叩いていた旧知のエド・シグペンが龝吉の姿を見つけ、「どうだい、ワン・ステージやれよ」と声をかけた。龝吉はパウエルと代わり、夢中で演奏したという[5]。同年、ストーリーヴィルからアルバム『ザ・トシコ・トリオ』を発表。

日本人としては初めてバークリー音楽院(Berklee College of Music、現バークリー音楽大学)で奨学生として学んだ。

1959年、チャーリー・マリアーノと結婚。1962年、チャールズ・ミンガスのバンドに参加。1963年、マリアーノとの間に娘のマンディ満ちるをもうける。1965年に離婚。

1967年に現在の夫でありフルートテナーサックス奏者のルー・タバキンと出会い、1969年に結婚。

1973年にロサンゼルスで秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンドを結成し、1974年、ジャズと日本古来の和楽を融合した『孤軍』を発表する。1982年にはニューヨークへ戻り、1983年に秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキンを結成、自らの作編曲で通算30年にわたって活動を続け世界的に名声を馳せた。その評価と人気を示すものとしてアメリカのジャズ専門誌ダウンビートでは秋吉とルーのビッグバンドは批評家投票で1979年から5年連続、読者投票では1978年から5年連続で共に1位を獲得している。

グラミー賞では計14度ノミネートされるが未受賞に終わっている。これは歴代8位の記録である。

1996年度に主にその著書『ジャズと生きる』で第9回ミュージック・ペンクラブ・ポピュラー部門最優秀賞を受賞。2003年12月29日、ニューヨークのジャズクラブバードランドでの演奏を最後にオーケストラを解散した。

2004年6月-7月にはNHK人間講座で講師を担当。2005年1月27日、米国を拠点にピアニスト、ビッグバンドリーダーとしてジャズ発展に寄与した功績が認められ、朝日新聞文化財団の朝日賞(04年度朝日賞)を受賞[6]。東京・日比谷の帝国ホテルで開かれた受賞祝賀パーティーでは、木更津甚句に想を得た「ザ・ヴィレッジ」、「ヒロシマ そして終焉(しゅうえん)から」の最終楽章「ホープ」、「鞠と殿さま」の3曲を、ソロで演奏した。2006年12月、キャリアにおいて初となるシングル「HOPE 希望」を発表。現在はソロなどで活動中。

受賞歴

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他多数

音楽

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秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド

アルバム

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秋吉敏子=ルー・タバキンビッグバンド

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秋吉敏子ジャズオーケストラ フィーチャリング ルー・タバキン

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ソロ・トリオ 等

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コンピレーション

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オムニバス

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シングル

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DVDオーディオ

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  • ラストライヴ・イン・ブルーノート東京 - Last Live in Blue Note Tokyo(2004年)

テレビ出演

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文献

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著書

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参考文献

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エピソード

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  • 横浜のクラブ『モカンボ』では、ジャズギタリストとして活動していた植木等と共に演奏していた時期もある。また、ハンプトン・ホーズが進駐軍の将校として来日していた際にもセッションをしたことがある。
  • 穐吉がニューヨークへと渡った後、後任のピアニストとしてモカンボに入ったのが桜井センリである。
  • 渡米直後に行ったライブで、偶然演奏していたポール・チェンバースのベースを聴き、「アメリカのベーシストは皆こんなにうまいのか」と驚愕した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「龝」「穐」「秋」は互いに異体字(字体は異なるがおなじ字種)であり、「龝吉 敏子」は「穐吉 敏子」「秋吉 敏子」とも表記される。

出典

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  1. ^ a b 秋吉敏子|プロフィール”. Warner Music Japan. 2012年8月14日閲覧。
  2. ^ スイングジャーナル』1961年3月号、スイング・ジャーナル社、86-87頁、「東京のトシコ・マリアノ」。
  3. ^ 池上信次 (2021年8月10日). “「TOKYO1964」のジャズ・フェスティヴァル”. サライ. 2024年5月16日閲覧。
  4. ^ スイングジャーナル』1964年9月号、スイング・ジャーナル社、26-38頁。
  5. ^ 『スイングジャーナル』1961年3月号、スイング・ジャーナル社、16-25頁、「トシコは語る ニューヨークのジャズ仲間達」。
  6. ^ “詩人の中村稔氏ら4氏に贈呈 2004年度朝日賞”. asahi.com (朝日新聞社). (2005年1月1日). オリジナルの2005年2月5日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20050205051035/www.asahi.com/culture/update/0101/001.html 
  7. ^ 鈴木良雄 / My Dear Pianists~チンさんと6人のピアニスト - CDJournal
  8. ^ "Long Yellow Roadジャズ伝説・穐吉敏子の94年". NHK. 2024年5月12日. 2024年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月12日閲覧

外部リンク

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