福嶋久晃

日本のプロ野球選手 (1947-)

福嶋 久晃(ふくしま ひさあき、1947年4月10日 - )は、和歌山県東牟婁郡太地町出身の元プロ野球選手捕手内野手)・コーチ解説者。旧名は福島 久

福嶋 久晃
2017年11月23日 横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県東牟婁郡太地町
生年月日 (1947-04-10) 1947年4月10日(77歳)
身長
体重
177 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手内野手
プロ入り 1966年 ドラフト外
初出場 1967年9月7日
最終出場 1985年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

長女はプロゴルファー福嶋晃子、三女も同じくプロゴルファーの福嶋浩子

経歴

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PL学園高校時代に投手から捕手へ転向し、2年生エースの加藤英治とバッテリーを組む。3年次の1965年春の選抜へ出場するも準々決勝で小坂敏彦を擁する高松商に敗退[1]し、同年夏は府予選準決勝で福本豊のいた大鉄高に敗退。高校同期に得津高宏長井繁夫、1学年下に加藤秀司がいる。

同年の第1回ドラフト広島カープから8位指名を受けるも拒否し、卒業後の1966年大昭和製紙へ入社。同年の都市対抗に出場し、準決勝で住友金属に敗退[2]

1966年にドラフト外大洋ホエールズへ入団し、1年目の1967年9月7日巨人戦(川崎)で4回表に初出場を果たすと、10月17日サンケイ戦(川崎)に5番・捕手で初先発出場。

2年目の1968年には二軍藤井勇監督の指導を受けてイースタン・リーグ優勝に貢献し、3年目の1969年には打率.339でイースタン・リーグ首位打者を獲得。

1970年には伊藤勲大橋勲に次ぐ3番手捕手として一軍に定着するが、打力を活かして一塁手三塁手としても15試合に先発出場し、結局捕手としては1試合のみであった。4月15日のサンケイ戦(神宮)の8回表に松岡功祐の代打で藤原真から二塁打を放って初安打、5月17日中日戦(中日)では6回表に星野仙一から左翼へ逆転決勝2点適時二塁打を放って初打点、同25日の巨人戦(川崎)の9回裏に大橋勲の代打で城之内邦雄から左越同点2ラン本塁打を放って初本塁打を記録。

1972年に名前を「久」から「久晃」に変更し、1975年には正捕手の伊藤と併用されて62試合に先発マスクを被り、リーグNo.1の盗塁阻止率を記録[3]。同年は初の2桁となる10本塁打を放ち、以降は1980年まで6年連続で2桁本塁打をマーク。

1976年には自身唯一の100安打と自己最多の18本塁打を放ち、強打の捕手としてのポジションを確立し、オールスターゲーム初出場も果たす。同年7月23日の巨人戦(川崎)では鵜沢達雄をバッテリーを組むが、王貞治に通算700号本塁打を打たれた。

1977年には伊藤から正捕手の座を奪い、2年連続オールスター出場も果たす。同年6月1日のヤクルト戦(川崎)では間柴茂有の120km以上は出ていた速球をダイレクトに右に受け、負傷して退場[3]。サイン違いであったが、ミットに掠りもせずに身体で直接受けてしまった[3]。間柴の球は、内角寄りに構えたミットとは反対の外角にコースを取って福嶋の肩を直撃し、退場後に川崎市内病院に直行し全治1週間と診断され、結局20試合以上を棒に振る[3]。復帰後の8月31日の巨人戦(後楽園)では先発の三浦道男をリードするが、王にハンク・アーロンに並ぶ本塁打世界タイ記録となる通算755号を打たれる。

1978年には自身唯一の規定打席に到達し(36位、打率.249)、同年4月17日の広島戦では横浜スタジアムこけら落としのチーム第1号本塁打を北別府学から放ち、同年は4位であったものの7年ぶりのシーズン勝ち越しに貢献。川崎球場ラストイヤーとなった前年の借金17から貯金7を記録すると、1979年には横浜移転後初で8年ぶりのAクラス入りと15年ぶりの2位躍進に貢献。

1980年4月5日には開幕戦の巨人戦(横浜)で江川卓からサヨナラ安打を放ち、自己最多の122試合に出場。

1981年には4年ぶりのオールスターゲーム出場を決めたほか、8月26日の広島戦(広島市民)に6番・捕手で先発出場して1000試合出場を達成。

福嶋は土井淳監督のバッテリーコーチ時代の教え子であり、土井が現役時代に得意としていたマウンドに顔を向けたまま、矢のような送球で一塁ランナーを刺す送球や、バックホームの送球が目の前に迫ってくるまで知らぬ顔して棒立ちになり、ランナーがスピードを緩めると、いきなり捕球体制をとり、タッチアウトにする「棒立ちタッチ法」を多用していた。監督としての土井は、福嶋をあまり買っておらず、無線を使って福嶋に投手の配球の指示をする、変わった采配を始めた。福嶋を信用しない采配でチームは迷走し、1980年は4位、1981年は最下位に終わっている。

1982年からは関根潤三監督が編み出した「ベテラン三人捕手体制」で辻恭彦加藤俊夫との併用になり、同年5月19日の巨人戦(後楽園)では2回表に江川卓から2ラン本塁打を放って100本塁打を達成。

1983年からは若菜嘉晴の加入で出場機会が減少し、1984年には一塁での起用が主となる。

捕手としての福嶋について、評論家時代の野村克也は「一生懸命やってはいるのだろうが、くるタマだけを捕っている。外野手のほうが似合いそうだという気がしてならない」[4]「若い内に楽をしすぎましたね」[5]と辛口の評価をしている。

1985年には広島東洋カープへ移籍し、4月13日には開幕戦の阪神戦(広島市民)で山本和行からサヨナラ安打、翌14日の開幕2戦目にも山本から安打を放つなど右の代打として活躍。9月21日の巨人戦(後楽園)に小林誠二の代打でキース・カムストックから放った二塁打が最後の安打、10月24日の中日戦(広島市民)に山根和夫の代打で起用されたのが最終出場となり、同年限りで現役を引退。

引退後は1年だけ広島二軍バッテリーコーチ補佐(1986年)を務めた。

1987年には古葉竹識が監督に就任したのを期に3年ぶりに古巣・大洋へ復帰し、一軍バッテリーコーチに就任。

1989年には1年目の谷繁元信を指導し、怪我をしないことを第一に基礎的な体力作りをさせたが[6]、古葉と共に同年退任。

退団後は横浜市港南区港南台でフランス料理店「バレーヌ」を経営していたが、2013年に閉店。娘・晃子のキャディを務める傍ら、晃子・浩子姉妹のマネージメントを行う「インタープレイス」株式会社の代表取締役会長でもある。一時期はJ SPORTSで解説を行なっていたが、現在は活動していない。

2009年からは株式会社「エバーケア」を設立し、代表取締役に就任。

2016年にアマチュア野球指導資格を回復し、岡山県関西高等学校でコーチを務めている[7]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1967 大洋 5 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1968 4 8 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .000 .000 .000 .000
1969 6 5 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
1970 66 105 99 4 20 2 0 2 28 11 0 0 0 1 4 0 1 23 5 .202 .238 .283 .521
1971 50 55 52 3 9 0 0 2 15 4 0 0 1 0 2 0 0 25 1 .173 .204 .288 .492
1972 27 29 27 2 4 0 0 1 7 1 0 0 0 0 1 0 1 11 2 .148 .207 .259 .466
1973 31 27 27 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .148 .148 .148 .296
1974 65 133 128 10 27 1 0 4 40 11 1 1 1 0 4 0 0 18 4 .211 .235 .313 .547
1975 101 264 251 23 67 7 0 10 104 29 1 2 1 2 3 1 7 22 5 .267 .293 .414 .707
1976 112 400 376 33 100 15 0 18 169 45 0 1 2 4 15 1 3 49 10 .266 .296 .449 .746
1977 105 357 317 34 83 12 0 13 134 50 0 2 3 2 31 6 4 55 9 .262 .333 .423 .756
1978 118 418 373 41 93 18 3 15 162 46 1 1 6 1 34 8 4 53 12 .249 .318 .434 .752
1979 110 350 314 33 77 17 0 13 133 44 1 1 2 4 29 9 1 50 6 .245 .307 .424 .731
1980 122 373 337 27 71 10 0 13 120 45 0 0 8 3 23 9 2 71 7 .211 .263 .356 .619
1981 106 334 298 22 74 14 5 7 119 37 0 2 4 6 23 8 3 46 10 .248 .303 .399 .702
1982 75 153 142 8 28 3 1 6 51 23 0 0 0 4 6 0 1 21 9 .197 .229 .359 .588
1983 54 68 64 5 18 4 0 2 28 7 0 0 1 1 2 2 0 10 3 .281 .299 .438 .736
1984 52 57 54 4 12 3 1 1 20 8 0 0 0 0 2 0 1 6 3 .222 .263 .370 .634
1985 広島 45 62 54 3 15 3 0 0 18 8 0 0 3 0 5 0 0 11 3 .278 .339 .333 .672
通算:19年 1254 3204 2932 252 702 109 10 107 1152 370 4 10 32 28 184 44 28 484 90 .239 .288 .393 .681

年度別守備成績

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捕手










1970 大洋 5 2 2 .500
1971 18 7 1 .125
1972 9 2 2 .500
1973 17 2 5 .714
1974 53 17 14 .452
1975 68 21 26 .553
1976 109 52 48 .480
1977 94 52 34 .395
1978 117 48 50 .510
1979 107 55 24 .304
1980 120 83 49 .371
1981 101 64 38 .373
1982 50 22 10 .313
1985 広島 2 0 0 .000
通算 870 4271 303 .415

記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

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  • 56 (1967年 - 1969年)
  • 10 (1970年 - 1985年)
  • 85 (1986年)
  • 87 (1987年 - 1989年)

登録名

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  • 福島 久 (ふくしま ひさし、1967年 - 1972年)
  • 福嶋 久晃 (ふくしま ひさあき、1973年 - 1989年)

脚注

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  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ a b c d オフサイドブックス編集部『プロ野球「毎日が名勝負」読本』彩流社2001年3月23日ISBN 4882026155、p54。
  4. ^ 野村克也「野球は頭でするもんだ<完全版>(下) (朝日文庫)」朝日新聞出版2010年4月7日ISBN 4022620153、p84。
  5. ^ 野球は頭でするもんだ(下)、p81。
  6. ^ 谷繁元信「谷繁流キャッチャー思考 (当たり前の積み重ねが確固たる自信を生む)」日本文芸社2017年6月15日発売、ISBN 4537214953、p16。
  7. ^ ☆69歳☆ 福嶋浩子オフィシャルブログ 2016年4月10日付

関連項目

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外部リンク

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