神荼・鬱塁
神荼(しんじょ / しんと)・鬱塁(うつりつ)は、中国神話の神。行いの悪い鬼(死者の霊)を葦縄で縛り、虎に食わせると伝わる。その絵や名前を門戸に飾る風習があり、門神の最古例とされる。門神は他の神に取って代わられもしたが、神荼・鬱塁を飾る風習が今でも地域に残っている。
名称
編集神荼と鬱塁(簡体字: 郁垒; 繁体字: 鬱壘)のように、後者は現代日本語と中国語で漢字表記が異なる。
神荼の元来の読みは「しんじょ」であり、「荼」は同音の「除」に通じると上原淳道は説いている[1]。また、鬱塁は「うつりつ」と読み[注 1]、「塁」は脚韻する「祓」に通じるとし、神荼と鬱塁の中核には「除・祓」の概念があるとする[3]。
なお、中国語においても異読があり、神荼の読みは Shentu (拼音表記)が標準とされたり[4]、 Shenshu と表記されたりする[5]。
早期の文献
編集神荼と鬱塁の言及で最も古いとされるのは『山海経』から引かれたとする王充(97年没)『論衡』の記述であるが、現存の『山海経』には欠ける内容であり[6]、文体や内容考証からその逸文とは考えにくいとされる[8][注 2]。
その『論衡』訂鬼篇の記述によれば神荼・鬱塁(うつりつ)はの二神は、海からそびえる巨大な桃の木の上にたつが、その木の枝は屈蟠すること3000里[注 3]。大木の北東に鬼門があり、二神は行いの悪い鬼(死者の霊)を葦索(アシでゆった縄)で縛り、虎に喰わせるという。それにちなみ黄帝が、魔除けの慣習を民間にはやらせたとされる。桃の材木で出来た人形(大桃人)を立て、神荼・鬱塁、虎の絵を門戸に描き、葦索を掛けるというものである[11]。
同作品の別篇(亂龍篇)にも記載されているが[12] 、多少文言が異なり、黄帝が制定した慣習ではなく、県官(漢王朝の婉曲表現とされる)が、大桃人や門戸の絵付けで厄祓いをおこなっているとする[5]。
蔡邕(192年没)の『獨斷(独断)』[13]よく似た記載がみられる[14]。応劭『風俗通義』(195年頃)では『黄帝書』(黄帝四経)を引いているとするが、内容はほぼ同じである[15][16]。これらには、魔除けの飾りが付けられるのが大晦日[17]、厳密言えば臘の儀式前の夜とされている[16][18](臘は年末の祭典[19]、臘八節の前身)。桃材の人形は桃梗とも呼ばれるが、、木を削った彫像であったことにも触れられている[20][注 4][20][18]。
上記は、中国の民間信仰である門神の起源伝説にあたる[9]。後の時代、他の神格が門神として取って代わりもしたが[21]、地域によっては近年でも神荼・鬱塁が新年の門神として飾られる[4][9]。
後世
編集桃人形(「桃梗」等)の飾りはのちに簡略化されて「桃符」という桃の板が使われるようになり、神荼・鬱塁の像が描かれたり、その神名が書かれたたりした[22]。
言い伝えによれば、8世紀、唐の太宗が秦瓊(しん けい、秦叔宝)と尉遲恭(うっち きょう、尉遅敬徳)ら将軍を、悪霊から自分を守るための身辺警護役に任命し、そのことから両者を門神として仰ぐ慣習が起こったとされている[4][23]。さらに9世紀頃には鍾馗を門神とする風潮が起きた[23]。
10世紀頃、桃符に聯語を書き添えるようになった[21]。桃符とは、13世紀頃の説明によれば、幅4-5寸、長さ2-3尺の薄板で、神像や狻猊・白澤の絵を描き、左に鬱塁、右に神荼の名を書き添えるか、春の詞や祝祷の語を述べる。桃符は、年次新しく交換する[25]。
桃符(板)は、やがて紙製のものに置き換わったが、これが春聯の起源とされる[22][26]。
清の学者の兪正燮は、門神は本来は二神でなく一つの神だとするが(『癸巳存稿』巻十三)、それは『続漢書』礼儀志の引用文の誤読によるものだと指摘される[27]。もっとも、兪正燮は、1神か2神かを糺そうとするのは無益と考えており、神荼・鬱塁いずれとも桃椎(モモのつち)に由来するというのが本題であった、とも解説されている[28]。
注釈
編集出典
編集- 脚注
- ^ 上原 (1951), p. 82.
- ^ 「もんしん【門神 mén shén】」『日本国語大辞典』、小学館。 @ コトバンク
- ^ 上原 (1951), p. 83.
- ^ a b c Yang, Lihui; An, Deming; Turner, Jessica Anderson (2005). “Shentu”. Handbook of Chinese Mythology. Oxford University Press. pp. 200–203. ISBN 978-1-57-607806-8
- ^ a b Yan, Changgui (2017), “5 Daybooks and the Spirit World”, in Harper, Donald; Kalinowski, Marc, Books of Fate and Popular Culture in Early China: The Daybook Manuscripts of the Warring States, Qin, and Han, Handbook of Oriental Studies. Section 4 China, volume 33, BRILL, p. 230, ISBN 9789004349315
- ^ 水野 (2008), p. 104.
- ^ a b c 北條勝貴「野生の論理/治病の論理:―― 〈瘧〉治療の一呪符から ――」『日本文学』第62巻第5号、日本文学協会、2013年、39-54頁、doi:10.20620/nihonbungaku.62.5_39、ISSN 0386-9903、NAID 130006742672。
- ^ "現行『山海経』には記載がなく、表現や内容を詳細に検討した松田稔によると、その逸文とも考えにくい"[7]。
- ^ a b c d 嶋田 (2003), p. 27.
- ^ 王充「訂鬼篇第六十五」『論衡』nd 。「『山海經』又曰:滄海之中,有度朔之山。上有大桃木,其屈蟠三千里,其枝間東北曰鬼門,萬鬼所出入也。上有二神人,一曰神荼,一曰鬱壘,主閲領萬鬼。惡害之鬼,執以葦索而以食虎。於是黄帝乃作禮以時驅之,立大桃人,門戸畫神荼、鬱壘與虎,懸葦索以御凶魅。」 "鬱壘" recté "欝壘"
- ^ 『論衡』訂鬼篇[10][7]。水野, 2008 & 114–115, 注27に抜粋。
- ^ 王充「亂龍篇第四十七」『論衡』nd 。「上古之人,有神荼、鬱壘者,昆弟二人,性能執鬼,居東海度朔山上,立桃樹下,簡閲百鬼。鬼無道理,妄為人禍,荼與鬱壘縛以盧索,執以食虎。故今縣官斬桃為人,立之戸側;畫虎之形,著之門闌。夫桃人非荼、鬱壘也,畫虎非食鬼之虎也,刻畫效象,冀以御凶。今土龍亦非致雨之龍,獨信桃人畫虎,不知土龍。九也。」
- ^ 獨斷/独断 上巻 疫神[7]。
- ^ 『獨斷』: "海中有度朔山..." 水野 (2008), p. 115, 注28。『論衡』の山海経引用文 『論衡』 pp. 114–115, n27と比較。
- ^ 水野 (2008), p. 105、『風俗通義』祀典8を引用。
- ^ a b 應, 劭 (c. 195), “8”, 風俗通義
- ^ 秋田 (1944), p. 293.
- ^ a b Chapman, Ian, ed. (2014), “28 Festival and Ritual Calendar: Selections from Record of the Year and Seasons of Jing-Chu”, Early Medieval China: A Sourcebook, Wendy Swartz; Robert Ford Campany; Yang Lu: Jessey Choo (gen. edd.), Columbia University Press, pp. 475, ISBN 9780231531009
- ^ Chapman (2014), p. 469.
- ^ a b 中村喬「春聯と門神─中國の年中行事に關する憶え書き」『立命館文學』367·368、3頁、1976年2月。JSTOR 1178120。
- ^ a b 嶋田 (2003), p. 35, 注28.
- ^ a b Beijing Foreign Languages Press (2012), Chinese Auspicious Culture, Shirley Tan (tr.), Asiapac Books, pp. 23–24, ISBN 9789812296429
- ^ a b Liao, Kaiming (1994), Chinese Modern Folk Paintings, 1, Science Press, p. 3, ISBN 9787030042101
- ^ 陳元靚「寫桃版. 巻第五」『歳時廣記』歸安陸氏、1879年 。
- ^ 陳元靚 『歳時廣記』巻第五、「寫桃版」の条。13世紀[24]。嶋田 (2003), p. 105に引用。
- ^ 秋田 (1944), p. 293; 中村 (1976), p. 14–15; 嶋田 (2003), p. 35, n28
- ^ 胡, 新生 (1998), 中国古代巫術, 山東人民出版社, p. 3, ISBN 9787209023252 , "『續漢書』礼儀志...清人兪正燮因為該書只提鬱壘未提神荼,便認為漢代門神只有一位,這是誤解。"
- ^ 森三樹三郎『"桃椎"+神荼 支那古代神話』大雅堂、1944年、281頁 。
- 参照文献
- 秋田成明「度朔山伝説考―桃の俗信―」『支那學』第11巻、第3号、37-58頁、1944年9月 。
- 水野, 杏紀「新井白石『鬼門説』について : 翻刻と注解 (平木康平教授退職記念号)」『人文学論集. 平木康平教授退職記念号』第26巻、大阪府立大学人文学会、2008年3月、97-117頁、CRID 1390290699600670592、doi:10.24729/00004460、hdl:10466/9907、ISSN 0289-6192。
- 嶋田, 英誠「中国文化の中に於ける桃李と,跡見花蹊」『跡見学園女子大学文学部紀要』第36号、跡見学園女子大学、2003年3月、17-38頁、CRID 1050282812796773632、ISSN 1348-1444。