神崎 修三(こうざき しゅうぞう、1853年1月25日(嘉永5年12月16日[1][注 1])– 1917年大正6年)5月4日[2][3][4][注 2])は、明治・大正期の地主、政治家実業家衆議院議員。旧姓・堀内。

神前修三

経歴

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紀伊国名草郡神前村[5]和歌山県名草郡岡崎村海草郡岡崎村を経て現和歌山市)で堀内伊兵衛の長男として生まれ、豪農・神前吉次郎の養子となる[2]漢学を修めた[3]

1888年(明治21年)1月、補欠選挙で和歌山県会議員に当選[2][4]。1889年(明治22年)、1894年(明治27年)、1898年(明治31年)に再選され、1899年(明治32年)9月に退任[2][4]。1901年(明治34年)5月に補欠選挙で当選し、1902年(明治35年)8月に衆議院議員に当選のため辞職した[2]。県会議員に通算13年2ヵ月在任した[2]。この間、常置委員、参事会員、地方衛生委員、図書審査委員、地方森林会議員などを務めた[2][3]。また、1897年(明治30年)9月、初代海草郡会議員に当選し、同副議長も務めて1期在任した[2][4]

1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部から出馬して当選し、以後、1908年(明治41年)5月の第10回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した[2][3][4][5]。この間、立憲政友会院内主事を務めた[5]

1900年(明治33年)海草郡宮村字秋月(現和歌山市)に転居し、1914年(大正3年)から酢、醤油の醸造業を営んだ[2][4]

脚註

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注釈

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  1. ^ 『和歌山県議会歴代議員名鑑』133頁では嘉永5年12月26日、『立憲政友会功労者追遠録』159頁では嘉永5年12月5日。
  2. ^ 『立憲政友会功労者追遠録』159頁では明治44年5月17日。

出典

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  1. ^ 衆議院『第二十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報号外〉、1908年、23頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『和歌山県議会歴代議員名鑑』132-133頁。
  3. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』261頁。
  4. ^ a b c d e f 『和歌山県史 人物』183頁。
  5. ^ a b c 『立憲政友会功労者追遠録』159-160頁。

参考文献

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  • 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
  • 『和歌山県議会歴代議員名鑑』和歌山県議会、1969年。
  • 和歌山県史編さん委員会編『和歌山県史 人物』和歌山県、1989年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。