石田冷雲
石田 冷雲(いしだ れいうん、文政5年(1822年)6月 - 明治18年(1885年)6月6日)は幕末・明治の浄土真宗の僧。紀伊国有田郡栖原村極楽寺13世[4]。漢詩を嗜んで諸家と交流し、幕末には京都で活動した。地元に開いた就正塾(後に敬業家塾)で経史、西本願寺学林で宗学を教えた。
石田 冷雲 | |
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文政5年(1822年)6月 - 明治18年(1885年)6月6日 | |
名 | 果[1] |
号 | 碩宗(字)[1]、審易窩・楽邦隠士(号)[2] |
諱 | 通玄[3]・通元[2] |
諡号 | 至誠院 |
尊称 | 上人 |
生地 | 紀伊国有田郡栖原村 |
没地 | 京都府京都 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 本願寺派 |
寺院 | 極楽寺 |
師 | 芳英師 |
弟子 | 関本諦承・浅井宗恵・是山恵覚・藤島了穏・鈴木法琛・天野若円・菅洪範・伊井智量 |
著作 | 『冷雲詩鈔』 |
廟 | 施無畏寺 |
生涯
編集江戸時代
編集文政5年(1822年)6月紀伊国有田郡栖原村に生まれた[2]。幼少期は病弱だった[5]。15歳で湯浅村野呂松盧に入門し、5年間師事した[6]。天保9年(1838年)父を喪い[7]、西本願寺宗主から度牒を受けた[6]。松盧が京都に移った際には家業のため同行できず、松盧は間もなく京都で死去した[6]。
西本願寺学林に在籍し、毎年90日間夏安居に参加し[6]、芳英師に宗学を学んだ[5]。16年で得業して藹満となった[6]。また、若い頃から漢詩を試み、垣内渓琴の紹介で大槻磐渓・菊池三渓に通信指導を受けた[6]。安居の余暇には京都・大坂を行き来し、渓琴の紹介で梁川星巌・梅辻春樵・仁科白谷等に接し、漢詩を研鑽した[6]。
20歳頃から生徒が集まり[5]、極楽寺本堂内に就正塾を開校した[8]。小柄な体格ながら武術にも励み[9]、20歳で野田昌助から本心鏡智流槍術[7]、安政3年(1856年)海上胤平から北辰一刀流剣術の免許を皆伝された[7]。塾にも稽古場を設け、剣術・槍術を鍛錬させた[7]。家老久野家屋敷で相撲(剣術とも[5])を披露したことや[9]、北畠道竜と嵐山で花見をした際、酒が入って口論となり、真剣勝負をしようとして周囲に止められたこともあった[9]。
幕末には菊池海荘と紀淡海峡防衛について画策し、梅田雲浜・横井小楠・佐久間象山等と交わり[7]、公卿大原重徳・庭田重胤に献策し[5]、裏辻公愛の御殿にも招かれた[10]。月性上人が紀州に来訪した際には紀州藩家老に取り次いだ[9]。
堺筋御門内[5]大原家屋敷に出入りしていた頃、備前国吉備津彦神社の兵学者山田(結城とも[5])一郎が開港論を唱えて度々浪士に襲撃され、邸内に避難して来た[11]。外を浪士に見張られる中、冷雲は一郎の体を赤く塗って手に履物を、由良守応には刀2本を挿して提灯を持たせ、自分の従者に変装させた上[5]、自身は法服を着て、出家の法要に出かけるふりをして門外に護送し、紀州に連れ帰った[11]。しかし、慶応元年(1865年)一郎・海荘と帰京する途中、竹田街道で浪士1名に襲撃され、結局先頭にいた一郎が殺されたという[9]。
明治元年(1868年)冬津田正臣と上京し、藩の任務を行った[12]。
明治時代
編集明治維新後、寺から4,5町離れた所に[15]塾舎を新築し[8]、敬業家塾と称し、塾則を制定して経史を教えた[16]。近隣の通学生のほか、日高郡・牟婁郡等遠方からも生徒が集まり、境内に寄宿させた[17]。塾からは楠本武俊・木下友三郎・菊池晩香[15]・関本諦承[8]等が輩出した。
明治2年(1869年)春[2]、西本願寺学林で宗典を講義した[10]。明治4年(1871年)寺を法嗣に譲り、隠居して詩吟に勤しんだ[6]。1873年(明治6年)頃政府に徴士に招聘されたが、断った[9]。
1875年(明治8年)宗内で協和党と分離党が対立すると[6]、東京築地本願寺に移った[10]。5月15日亀沢町の大槻磐渓宅を訪れ、初めて対面した[6]。5ヶ月後対立が収束すると帰還した[6]。
1879年(明治12年)真宗西山教校教授、明治14年(1881年)大教校講師となり[2]、浅井宗恵・是山恵覚・藤島了穏・鈴木法琛・天野若円・菅洪範・伊井智量等を教えた[18]。この頃、薗田宗恵・藤島了穏・浜口吉右衛門・楠本武俊・木下友三郎等と施無畏寺に明恵上人遺跡地碑を建立した[18]。また、京都に移住してきた菊池三渓や、宮原節斎・山中信天翁[19]、宗内では水原宏遠・鬼木沃洲・赤松連城・香川保蒐・小山定栄・島地黙雷・前田慧雲等と交流した[18]。
1885年(明治18年)6月6日岸田屋楼上で[19]眼鏡を着けて生徒の作文を添削中、卒中により急死した[12]。勧学中臣俊嶺により鳥辺野に葬送され[19]、宗主により司教の学階、至誠院の諡号を贈られた[2]。栖原村北山墓地に葬られ[10]、施無畏寺境内に菊池晩香撰・妻木薫園書「至誠院冷雲碑」が建てられた[2]。
『冷雲詩鈔』
編集1884年(明治17年)刊。黎庶昌題字、三島中洲・蒲生綗亭・菊池三渓序。垣内渓琴・垣内霞峰・津田香岩・倉田袖岡・新宮榴渓・浜口梧陵・奥蘭田・大槻磐渓・菊池三渓・石津灌園・北村季渓・草場船山・小山亀陰・小野湖山・山中信天翁等との交流が見える[12]。孫妻木直良編『真宗全書』第48巻収録。
巻中「海溢」では嘉永7年(1854年)11月体験した安政南海地震による津波災害について描写する。
歳在甲寅、嘉永七。冬十一月初五日。日仄過申、天黯澹。坤軸大震、海水溢。宝永曽聞、海嘯災。父老相伝、為口実。距今百四十八年。耳側心寒、懐悼慄。湯旱堯水、復何疑。是日目睹事、可筆。初聞、海底訇匉響。山壑答譍、百雷疾。何物嘯号、鳴不平。嘘噏元気、恣怒叱。須臾𣺰𣶞、立如山。突兀雲崩、勢蕩汨。鯨跋鼉擲、簸鱗族。潮頭呑陸、万弩発。里閭伝呼、鶏犬乱。扶老提幼、疾奔逸。門巷雑沓、避牛馬。室家急難、誡狼跋。往往啼哭、声裂耳。姉妹昆季、或相失。幸不為魚、即猿狖。山遁林竄、求儔匹。茲時夜黒、星斗高。毛豎股戦、魂怳惚。衣裳沾湿、班草荊。坐待、東方寒日出。日出杲杲、何所見。盛怒一霽、気瑟瑟。碧帰大壑、波浪細。白蝕田原、塩土凸。角槍題柱、腹背貫。敗舟狼藉、膠不抜。崩沙壊岸、無寸青。冤魂鬼哭、陸沈骨。薪木漂蕩、杼柚空。釜竈不爨、井不繘。村落数里、似寒食。菜色人哭、県罄室。隣並相弔、涕涙傾。児不洗沐、婦不櫛。吁嗟、天威警盈満。胡為荼毒傷民物。満目惨悽、難覼縷。聊付後人、命不律。
— 『冷雲詩鈔』巻中「海溢」
親族
編集脚注
編集- ^ a b 前田 1894, p. 182.
- ^ a b c d e f g h i 湯浅町 1967, p. 967.
- ^ 有田郡 1915, p. 457.
- ^ 湯浅町 1967, p. 570.
- ^ a b c d e f g h 有田郡 1915, p. 458.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 妻木 1909, p. 39.
- ^ a b c d e f 湯浅町 1967, p. 823.
- ^ a b c d 湯浅町 1967, p. 571.
- ^ a b c d e f 妻木 1909, p. 37.
- ^ a b c d e 湯浅町 1967, p. 824.
- ^ a b 妻木 1909, pp. 36–37.
- ^ a b c 有田郡 1915, p. 459.
- ^ 南窗に倚りて以て傲を寄せ、膝を容るるの安んじ易きを審らかにす。
- ^ 『冷雲詩鈔』巻上「審易窩図記」
- ^ a b 妻木 1909, p. 36.
- ^ 樋口 1914, pp. 54–55.
- ^ 湯浅町 1967, pp. 570–571.
- ^ a b c 妻木 1909, p. 38.
- ^ a b c 妻木 1909, p. 40.
- ^ 湯浅町 1967, p. 968.
- ^ 妻木 1909.
- ^ a b 『冷雲詩鈔』巻下38オ
- ^ 樋口 1914, p. 53.