相良頼喬

日本の江戸時代前期~中期の大名。肥後人吉藩2代藩主相良頼寛長男で、人吉藩3代藩主。従五位下遠江守

相良 頼喬(さがら よりたか)は、肥後国人吉藩3代藩主。

 
相良頼喬
相良頼喬像(相良神社蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永18年5月25日1641年7月3日
死没 元禄16年1月24日1703年3月11日
改名 長次郎丸(幼名)、長武(初名)、頼喬
戒名 天鬢院殿俊翁含英
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
熊本県人吉市の願成寺
官位 従五位下遠江守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
肥後人吉藩
氏族 相良氏
父母 父:相良頼寛、母:片岡正秀の娘・周光院
兄弟 於積、頼喬頼利
正室:相良長秀の娘・於亀
継室:鷲尾隆量の娘・月仙院
側室:西氏
頼泰頼真、式部、於仙、万吉、又四郎
養子:頼福
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生涯

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寛永18年(1641年)5月25日、第2代藩主・相良頼寛の長男として生まれる。寛文4年(1664年)閏5月7日、父の隠居により家督を継ぐ。藩政では土木工事に尽力した。寛文2年(1662年)より、藩士の林正盛が頼喬の許可を得て、自費で球磨川を開削。寛文5年(1665年)完成し、下流の八代まで船での行き来が可能となり、領内の発展に大きく貢献した。

貞享4年(1687年)、真宗信者の男女14人が川辺川(球磨川支流)に入水自殺するという事件が起きた[1]。人吉藩は、薩摩藩と共に真宗の信仰を禁止していた。ところが密告により信仰が発覚し、頼喬が捕り手を向かわせる前に集団自殺を図った事件である。

元禄16年(1703年)1月24日に死去した。享年63。5人の男児は早世していたため、従弟で正室・於亀の兄弟でもある頼福が養子となり跡を継いだ。

系譜

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父母

正室、継室

側室

  • 西氏

子女

  • 相良頼泰(長男) 生母は春晴院
  • 相良頼真(次男) 生母は月仙院
  • 相良式部
  • 相良万吉
  • 相良又四郎
  • 於仙

養子

脚注

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  1. ^ 国土交通省九州地方整備局 す・き・で・す 球磨川 真宗弾圧 - 国立国会図書館によるウェブアーカイブより