相武国造(さがむのくにのみやつこ・さがむこくぞう)は、相模国東部を支配した国造

概要

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表記

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古事記』、『先代旧事本紀』「国造本紀」には相武国造と表記される。

先祖

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氏族

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壬生氏または漆部氏(みぶうじ、ぬりべうじ、は共に)。天孫族出雲氏と同族とされる。漆部氏は後に相模宿禰に改姓されており、一族に漆部伊波良弁がいる。

本拠

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国造の本拠としては、古代の海岸沿いにあたり、宗社とされる寒川神社がある相模川左岸の寒川周辺及び相模川右岸の平塚周辺、台地海老名周辺、山麓伊勢原周辺の4つの拠点が考えられている。4つの拠点の時代区分としては、一般に海岸沿いから内陸部へ進展したと考えられる。また、寒川と海老名は目久尻川でつながっており、目久尻流域が一体的に開拓がなされたものと考えられる。高座郡の中央を流れる目久尻川は、相武国造の宗社とされる寒川神社との関係が深く、流域は寒川神社に関する地名や伝承が多く残る他、国の史跡に指定されている秋葉山古墳群等の古代の史跡も多い。

支配領域

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相武国造は当時相武国と呼ばれていた地域、後の相模国東部にあたる相模川流域の高座郡大住郡愛甲郡を支配領域とした。

大化の改新による中央集権的な律令制の成立以後、相武国と磯長(師長)国が合併して相模国が成立したが、古墳や式内社の関係から、成立直後の相模国は旧相武国が政治的中心地として影響力を持ち、国府も置かれていたと考えられている。また、平安時代後期には相模国府は交通の便上、現在の大磯町に移ったと推定される。また、一般に大磯に国府が移った平安時代後期頃が一宮制度が登場する時期であると推定されている。相模国は、元々旧相武国と旧磯長国が合併して成立しており、相武国造の宗社である寒川神社と磯長国造の宗社である川勾神社のどちらを一宮とするかで論争となったのが、現在まで続く国府祭の「座問答」であり、相模国の成立を現代に物語る国府祭は神奈川県無形民俗文化財に指定されている。

人物

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  • 漆部伊波(ぬりべ の いわ)
    天平20年(748年)に、東大寺大仏殿建立に知識物として商布2万端を寄進し、従七位上から外従五位下に叙せられた。天平宝字4年(760年)ごろには摂津国西成郡に土地を所有しており、すでに畿内に基盤を築いていたと考えられている。佐渡守や贓贖正を歴任したのちに、藤原仲麻呂の乱の平定に功があり、従五位下・勲六等に叙せられた。乱後は右兵衛佐、大和介、修理次官、玄蕃助、鼓吹正、尾張守などを歴任し、この間、神護景雲2年(768年)には相模宿禰の姓を賜り、相模国国造に任じられた[1]
  • 相模宿禰阿古麻呂(さがみ の すくね あこまろ)
    仁和元年(885年)、大和国添上郡の百姓である従七位上・相模阿古麻呂、従八位下・相模門主、従八位上・相模魚麻呂ら男女31人は、河内国渋川郡に移住した。阿古麻呂らは以下のように奏上した。父である正六位上・相模仁麻呂の本貫は大和国添上郡八島郷であり、弘仁5年(814年)に河内大目に任じられ、解官ののちは、河内国渋川郡邑智郷に居住した。その後に子孫が多くなったため、本貫を除籍し、河内国に替えたいと願い出た。朝廷は本貫として戸籍に登録することを許した[2]

氏神

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関連神社

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相武国造とその古墳の具体的な人物比定はなされていないが、首長級の古墳とされるものは真土大塚山古墳瓢箪塚古墳埒免古墳等がある。また、初代相武国造である弟武彦命の墓に関しては大神塚古墳とされ、後の時代に後裔が追慕するために築造したと伝わる。

脚注

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  1. ^ コトバンク「漆部伊波[1]
  2. ^ 『日本三代実録』仁和元年九月廿一日壬寅条
  3. ^ 宝賀寿男「第三部 畿内・東国に展開した初期分岐の支族 二 武蔵国造と東国の諸国造族」(『古代氏族の研究⑯ 出雲氏・土師氏― 原出雲王国の盛衰―』青垣出版、2020年、263、264頁)

関連項目

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参考文献

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  • 『國史大辭典』(吉川弘文館)
  • 坂本太郎平野邦雄監『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、1990年)
  • 『日本史広辞典』(山川出版社)
  • 『神道大辞典』(臨川書店)