益田武衛
益田 武衛(ますだ ぶえい、1850年(嘉永3年) - 1903年(明治36年))は、江戸時代末期(幕末)の徳島藩士。実業家。徳島県会議員。別名は永武(ながたけ)。
生涯
編集徳島藩の中老である仁尾永捷の息子として生まれる。後に仁尾氏の旧姓である益田氏を継ぐ。1869年(明治2年)に阿部興人・南堅夫と共に外交御用となり上京。
1870年(明治3年2月28日)に長州藩で起こった脱隊騒動の視察を命じられ、阿部・南と共に徳大寺実則一行と蒸気船・戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察、その後、東京に戻る。同年9月15日に庚午事変(いわゆる稲田騒動)の首謀者である新居水竹の切腹の介添人を勤める。
1876年(明治9年)、自由民権運動の結社である普通社を創設。その後、同社社長兼主筆となり、普通新聞(後の徳島新聞)を発行した。普通新聞の廃刊後は、徳島県会議員となり、県政に携わった。