畠山義宣 (江戸幕府高家)
日本の江戸時代後期の武士。江戸幕府旗本畠山義福次男で、高家旗本畠山氏8代当主(能登畠山氏20代当主)。従四位上左少将・長門守。高家肝煎を勤める
畠山 義宣(はたけやま よしのぶ[注 1])は、江戸時代後期の高家旗本。通称は庸蔵[1][2]。采地は、大和国、河内国、摂津国内で3122石余[1]。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 嘉永5年5月10日(1852年6月27日) |
別名 | 庸蔵(通称) |
官位 | 従五位下侍従、従四位下、従四位上、少将 |
幕府 | 江戸幕府 高家旗本 |
主君 | 徳川家斉、家慶 |
氏族 | 高家畠山氏 |
父母 | 畠山義福、畠山義一 |
兄弟 | 義一、義宣 |
妻 | 上杉治広四女祇子ら |
子 | 義勇 |
略歴
編集高家旗本・畠山義福の次男として誕生した[2]。兄・畠山義一の養子となる。
文化7年(1810年)11月4日、家督を相続する(表高家か?)[1]。同8年(1811年)11月5日、11代将軍・徳川家斉に初めて御目見する[1]。
文化11年(1814年)11月15日、高家に就任し、従五位下侍従に叙任する[1]。文政10年(1827年)6月15日、従四位下となる[1]。天保8年(1837年)11月15日、従四位上となる[1]。
妻について
編集正妻は上杉治広の四女祇子(死別)。その婚姻に際して祇子の養祖父上杉治憲は、大名に嫁いだ姉たちを羨ましがらないように諭す手紙を認めている。後妻は祇子の妹(治広の五女)増子(死別)、本多忠顕の娘。後室は松平頼説の娘(離婚)、後妻は京極高備の娘、永井直進の娘。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 堀田正敦等 編「巻第九十九」『寛政重修諸家譜』 第二(新訂)、続群書類従完成会、1964年6月15日。NDLJP:2983749/135。( 要登録)
- 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』 第4巻、東洋書林、1998年5月10日。ISBN 4-88721-306-9。