田村丕顕
田村 丕顕(たむら ひろあき、1875年(明治8年)11月29日 - 1945年(昭和20年)1月13日)は、日本の華族、海軍軍人。一関田村家14代当主。爵位は子爵。最終階級は海軍少将。アメリカ合衆国アナポリス海軍兵学校出身。
練習艦隊参謀時代の田村 | |
生誕 |
1875年11月29日 日本・東京 |
死没 | 1945年1月13日(69歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1901年 - 1925年 |
最終階級 | 海軍少将 |
経歴
編集東京出身。父の死去により1887年4月に子爵を襲爵した[1]。1896年にアメリカのアナポリス海軍兵学校に入学し[2]、1900年(明治33年)6月8日、卒業。帰国後、少尉候補生となり、海軍兵学校27期生として処遇された。1901年(明治34年)8月、少尉に任官し「浅間」、「出雲」乗組。1904年(明治37年)7月、大尉に昇進し「八雲」分隊長として日本海海戦に参戦。戦後は海軍大学校乙種学生を経て、練習艦隊参謀として古賀峯一ら兵学校34期生の指導にあたる。次いで「高千穂」砲術長、「筑波」分隊長、「壱岐」砲術長と実務経験を重ね東宮武官となる。
1909年(明治42年)10月、少佐に進級。以後、「明石」、「新高」副長、海軍省出仕兼元帥副官(井上良馨附)、第一艦隊参謀、皇族附武官(宣仁親王附)。この間、客死した駐日アメリカ合衆国大使・ジョージ・ガスリーの遺骸を米国に護送するよう命を受けて実務交渉にあたり、護送艦となった「吾妻」に同乗し、米国まで出張した[3]。
1919年(大正8年)12月、大佐に進級。皇族附武官兼元帥副官(依仁親王附)兼軍令部出仕、「薩摩」・「三笠」・「榛名」の各艦長を歴任。
1924年(大正13年)12月1日、少将に昇進。横須賀防備隊司令となり、1925年(大正14年)12月16日、予備役に編入された。その後は軍事普及事務嘱託(横須賀、仙台、盛岡)、岩手県立六原青年道場道場長、大政翼賛会岩手支部常務委員、岩手県翼賛壮年団団長を務めた。
栄典
編集- 位階
- 1895年(明治28年)11月20日 - 従五位[4]
- 1906年(明治39年)12月21日 - 従四位[5]
- 1913年(大正2年)12月27日 - 正四位[6]
- 1931年(昭和6年)1月16日 - 正三位[7]
- 勲章等
親族
編集脚注
編集- ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、85-86頁。
- ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office 1897
- ^ 「任務報告(2)」
- ^ 『官報』第3721号「叙任及辞令」1895年11月21日。
- ^ 『官報』第7046号「叙任及辞令」1906年12月22日。
- ^ 『官報』第427号「叙任及辞令」1913年12月29日。
- ^ 『官報』第1225号「叙任及辞令」1931年1月31日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
参考文献
編集- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。
- アジア歴史資料センター 「任務報告(2)」(レファレンスコード:C08020932900)
日本の爵位 | ||
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先代 田村邦栄 |
子爵 (一関)田村家第2代 1887年 - 1945年 |
次代 田村良顕 |